最近「何が正しいのかわからない」という話をよく聞く。たしかに2011年だけを考えても、いろんなことがあった。だがこれはどうも、身の回りの情報が増え、価値観が多様になったというような、単純な理由じゃないような気がする。

2011年の”Do The Right Thing”

Left vs Right

ビン・ラディン殺害の件なんかがそう。テロルとの戦いにおけるピリオドとしてはわかりやすいシナリオだけど、国による仇討ちが「正しさ」として成立してしまってよいのだろうかという疑問が残る。今回のビン・ラディンは4代目だなんて噂もあり、情報の不確実さがそれを助長している。

それからウィキリークスについても意見が分かれるところだろう。ただ彼らの場合、急進派にとってのヒーローであり、保守派にとっての鼻つまみ者なので、構図はわかりやすい。「公共の益になる情報を開示するためのプラットフォーム」というアイデンティティに、「パブリッシングの透明性がすべての人々にとってよりよい社会を創造する」という理念。その「正しさ」の定義は、本来のジャーナリズムのあり方だろう。今もブラッドリー・マニングは悪条件下で勾留されているが、もし彼がアメリカ軍の「正義」感に失望しなかったら、公電は漏洩されなかっただろうか?

またエジプト革命で暗躍し、今年になってソニーと揉めているアノニマスについてはどうだろう。アノニマスにとっての「正しさ」は、独裁国家や独占企業に対して「王様は裸である」と言うことにある、たぶん。iPhone をジェイルブレイクして英雄扱いされた geohot くんを相手に訴訟を起こしたソニーは、ハッカー倫理における「正しさ」を踏み外していたのだろうか?その一方で、アノニマス=匿名というアイデンティティそのものが、彼らの脆弱性になっている状況も見逃せない。

もっと身近なところでは、やはり原発関連の話。この話題がどうしても政治色を帯びてしまうのは、脱政治化している人も自動的に何らかの政治的態度を取らざるを得ないからだろう。そしてこの問題を複雑にしているのは、前提となる事実でさえ認識が定まっていないことにある。

さてここまで例に挙げた事象について、どんな視点が自分の「正しさ」にフィットするだろうか?「正しさ」の定義が違えば、眺める景色も違ってくる。それを決定付ける要因は、自分たちを取り囲む環境、経済的・政治的・文化的なバックグラウンドだが、表象するのは「思想」である。

今回は「思想」を相対的に位置付ける枠組み=フレームを用意して、「正しさ」の定義の現状把握をしてみたい。そして、もう一度「正しさ」ついて考えたいと思う。

NY Times: The Death of a Terrorist: A Turning Point?

NY Times: ビン・ラディンの死はターニングポイントに成り得たか?それはどんなものだったか?

「正しさ」のフレームワーク

現代の「正しさ」のベースになっているのは、冷戦以降のアメリカ現代思想、つまりリベラリズムを中心とした枠組みということで間違いないと思う。自由化によってアメリカの経済や文化がグローバルに拡がっていったように、リベラルな資本主義という合意の元、アメリカの政治哲学的な「思想」は世界のスタンダードになっていった。

2008年の金融危機以降の見取り図として、国連安保理の常任理事国による多極化した世界という解釈もあるが、まだ「思想」として際立った影響は見当たっていない。また日本においては政党の名前が全く「思想」につながっていないし、元来の左翼/右翼という区分もうまく当てはまりそうにない。

というわけで、『現代思想入門』の「現代リベラリズムの冒険」という章を参考に、2つの図を用意した。

現代リベラリズムの内部における差異

現代リベラリズムの内部における差異(矢印は指向性)

まず1つ目は、ノーランチャートと呼ばれる政治思想の概念図で、現代(ロールズ『正義論』以降)のリベラリズムの内部における差異を示している。

第1象限(上)がリバタリアンで、個人的にも経済的にも自由を求める。第2象限(左)がロールズに代表されるリベラルで、個人的には自由を求めるが、経済的には再配分などを政府に求める左翼となる。第3象限(下)は権威主義となっているが、旧来のファシズムではなくポピュリズムという解釈。国家による思想統制と計画経済を求める指向性のものだ。そして第4象限(右)が保守派で右翼ということになる。

リベラリズム内部の対立項目を明らかにしたところで、今度は自分たちの立ち位置を確認したい。

われわれの「思想」の現在地

「それでも原発は必要でしょ」とか、「なんかウィキリークスってカッコいいね」といった意見を抽象化するため、ノーランチャートに自分の「思想」のピンを立てようと思う。

日本人向けに作り直したポリティカルコンパスもオンライン上に転がっているが、ここではより簡潔で個人的にも解答しやすかった”World’s Smallest Political Quiz”という設問を参照しようと思う。上のリンクは元の英語サイトで自動計算が可能。下のリンクはその日本語訳だけど、集計は手動でしないといけない。

どんな結果になっただろうか?ひとまずこれが自分の「思想」の現在地と考えて間違いないと思う。

さて、このノーランチャートに足りていないものがある。それは「社会」という指標である。ここで言う「社会」とは、ソサエティではなくコミュニティ。「経済」が社会(ソサエティ)の基盤なのに対して、この「社会」(コミュニティ)は人を取り囲むように自生するものである。この指標が重要なのは、「経済」の信頼性を測る資本と同様に、「社会」においても社会関係資本(ソーシャルキャピタル)や評判資本という価値があり、それがソーシャルなるものへの渇望を生んでいるからだ。

以上のことを踏まえ、今度は「個人」の対立項目に「社会」を、別軸にそれぞれ「善(Good)」と「正義(Justice)」を設定した図を参照したい。

現代リベラリズムの位置付け

現代リベラリズムの位置付け(矢印は指向性)

この図は現代リベラリズムの位置と、コミュニタリアンとの対立関係を明示している。

上がリベラリズムで、下がサンデルなどに代表されるコミュニタリアン。この2つのどちらからも仮想敵とされる功利主義は、あるときは左に、またあるときは右に現れる。

サンデルの講義は、ベンサムなどの功利主義批判に始まり、リベラリズムへの問いかけを経由して、コミュニタリアン的結論へと流れていく。このときの功利主義批判は、個人の権利を無視した国家思想に対する異議であり、その「正しさ」はわかりやすい。またリベラリズムは少し前までアメリカで共有されていた「正しさ」なので、今もっとも批判が望まれていると言えるだろう。こうした組み立ての旨さも、サンデルが広く支持された理由の1つではないかと思う。

ではここで、「昇り終えたら外すべき梯子」を一旦外したい。

「正しさ」の流れゆく先

Liberalism is a Mental Disorder.

現在の日本はずいぶん右傾化した印象を受ける。それはサイレントマジョリティであり多数派の人たちが、意思を持って保守を選んだからではなく、現状を維持するためのリスクヘッジとして「いつも通り」に「空気を読んだ」結果だろう。またそのリスクヘッジの延長で、オンラインでは海外のプラットフォームを好んで使っているのも面白い。ここで重要なのは、そのプラットフォームが覇権を握っているかどうかである。

先述したように、ソーシャルといってもソサエティではなくコミュニティ。そしてもちろんコミュニストではなくコミュニタリアン。求められているのは、自分たちの周りからつながっていく緩やかな連帯である。その結果、今の「正しさ」の気分は社会的自由を求めるコミュニタリアンで、実情としては保守的なコミュニタリアンが多数派を占めるという状況なのではないかと思う。あくまで軸足は右なのである。

金融危機以降(日本の場合、震災以降とも言える)におけるリベラリズムの限界。そしてこれまでの状況への揺り戻しを左翼的な新潮流と捉えてもいいかも知れない。それはニューレフトのように理想主義的でもなく、文化左翼のように掴みどころのないものでもないだろう。また幅広い読者に読まれた「シェア – <共有>からビジネスを生みだす新戦略」のように、その左翼っぽさは徹底的に消されるだろう。時代の流れと、もう一度同じ場所に戻ろうとする運動。それら2つによって、未来は弁証法的な螺旋を描く。「二度目は喜劇として」かどうかは、やがてわかる。