architexture(現在サービス休止中)に寄稿させていただいた「経験主義のエクスペリエンスデザイン」のサブテキスト。もうすこしだけ「経験」について。
経験主義のエクスペリエンスデザイン
architexture.jp アーキテクスチャ — 情報をデザインする可能性の探求
(公開終了しています)
この数年間、わたしの精神はある種の「世界観」へと成長してきた。それが正しいか否かはともかく、わたし自身は今では物事を他のパターンでは考えられないところまで来ている。それゆえ、わたしはここでその思考のパターンを、短くまとめるという要請を守りつつ、できるだけ明快に記述し、公共の泡立つ論争のるつぼへと投げ入れてみたいと思う。
ウィリアム・ジェイムズ『純粋経験の哲学』-「純粋経験の世界」(P.47-48)
合理主義批判の対象
今回の記事では、合理主義批判の立場にあるエクスペリエンスデザインが、ビジネスのミッションとして合理性を求められるという、倒錯した状況を考えなおしている。
ビジネスにおけるエクスペリエンスデザインの使命は、事業主体のアイデンティティを示し、他者とどんな「関係」を築いていくか考えながら、それぞれの「経験」を支えることである。われわれはその際、事業主体に取り込まれないようにして、自らの「経験」を他者の「経験」に結びつけて考えなくてはならない。
またエクスペリエンスデザインは、それ単体で定量目標を課せられることに向いていない。事業主体に牽引されながら、違う領域の合理的判断を参照して、はじめてその役割を明らかにするものである。
これはエクスペリエンスデザインが、一様な価値ではなく、多様な価値を受け止めるのに向いていることを示している。
だから合理性というビジネスの良識は、エクスペリエンスデザインにそのまま応用できない。そしてこの異質さは、エクスペリエンスデザインの魅力でもある。
したがって、ここでの合理主義批判は、一般の合理的な考え方ではなく、エクスペリエンスデザインを合理的に利用することに向けられている。
これはエクスペリエンスデザインの対象である「経験」の質によって条件づけられている。
自らの「経験」を語る言葉
「経験」は人の実存に由来する。そこに身体性があるかぎり、モノ/コトやデジタル/アナログといった、事業側の合理的な二分法は意味をなさない。もしあらかじめ何か特定のメディアをアウトプットに見据えているなら、それはエクスペリエンスデザイン以外のものを請け負っていることになる。
なぜなら「経験」は、合理的にコントロールするものではない。「経験」とは、洞察力によって見通すものである。だからエクスペリエンスデザインは、反権威主義ではないが、権威を求めない。
さらにビジネスにおいて合理性を求めることは、「経験」を捕まえるための道具を要請し、その結果として思考法や手法が準備される。しかし「経験」とは形がなく、動き続けるものであり、囚われることがない。だから方法論の売人は、エクスペリエンスデザインのサービスではなく、道具そのものを取り扱っている。つまりエクスペリエンスデザインは、ビジネスに調教された身体を必要としない。
また自らの言葉は、自らの「経験」によって生まれる。他者に媒介され、定義され、それを選択した言葉によって、「経験」を語ることはできない。だから今回の記事では、自分語りをする必要があった。
これは自らの「経験」から得たエクスペリエンスデザインへの回答である。
「経験」から「関係」へ
「経験」は、「空間」に配置されるが、痕跡にはならず、「時間」に流され、心像にしか残らない。この感覚は自らの「経験」によって獲得したものであり、すでに今回の記事で援用したジェームズの理路からは逸している。
つまり、ごく当たりまえに考えて、自己の「経験」以上に確かなものはない。だからわれわれは、流動性が高く不確かなビジネスに惑わされず、ただ自己の「経験」によって、他者の「経験」を見通せばいい。
さらに端的に言うと、エクスペリエンスデザインとは、人の認識論から考えはじめ、デザインを意味論でとらえることがすべてである。「認識」とは、「経験」の切っ先で「意味」と対峙し、過去の「経験」を参照しながら「意味」を生み出すことである。すなわち「経験」とは、われわれが生まれてから死ぬまでを共にする、旅の友である。
「経験」なくして、「関係」は始まらない。だから「経験」を見通す目によって、知覚の扉を開け、その先の「関係」へと向かうマジックバスに乗り込もう。
次回は「関係」について書く予定にしている。
意識とは一種の外的な関係を意味する言葉であり、特殊な素材や存在の仕方を指示する言葉ではない。われわれの経験は、単にそこにあるだけではなく認識もされているという特異性のゆえに、その説明として経験の「意識的」な質ということが要請されたのであるが、この経験の特異性は、それらどうしの関係によって説明する方が適切である——そして、この関係そのものもまた経験なのである。
ウィリアム・ジェイムズ『純粋経験の哲学』-「”意識”は存在するのか」(P.31)
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