精神分析学者であり思想家のフェリックス・ガタリによって書かれた「三つのエコロジー」にこんな記述がある。

フランスにおける原子力発電所の急増は、ヨーロッパの広範な地域にチェルノブイリ型の事故が起きた場合の影響の危険性を押しつけているのである。幾千発もの核弾頭の貯蔵が、ささいな技術的故障あるいは人間的過失によって、自動的に人間の大量殺戮に結びつくという途方もない危険性についてはあえて言及するまでもなく周知のところであろう。こうした事例を通じて、人間活動の価値化の支配的様式に対する同一の問い直しがみちびきだされる。
すなわち (1) 個々別々の価値システムというものを押しつぶして圧延してしまい、物質的な財、文化的な財、自然的な地勢といったものをある同一の価値次元におく世界市場の市場的支配性に対する問い直し。 (2) 社会的諸関係と国際的諸関係の総体を警察機構・軍事機構の覇権の下におく支配的様式の問い直し。国家はこの二重の締め付けのなかで、その本来の、社会的諸関係と国際的諸関係の媒介装置としての伝統的役割をしだいに縮小し、いまや往々にして世界市場と軍事・産業複合体の機構的結合に奉仕するにすぎない存在になっている。
フェリックス・ガタリ「三つのエコロジー」

少し前なら軽く読み飛ばしていたかも知れないテキストが、今は痛いほど突き刺さる。

Orchard with Peach Trees in Blossom by Vincent Van Gogh

Orchard with Peach Trees in Blossom by Vincent Van Gogh

環境ビジネスが市場原理に取り込まれた事の顛末は、承知の通りである。ガタリは現在の(と言ってもこれが書かれた1989年時点の話だけど)自然環境的なエコロジー運動を「多くの取り柄をもっている」が「政治的アンガージュマン(社会参加)をいっさい否定するような態度をとったりもする時代錯誤的で民族的なエコロジー運動」とした上で、「三つのエコロジー」という自然環境、社会環境、精神環境の三つの環境におけるエコロジー思想と、それらを美的-倫理的に統合するエコゾフィー(エコロジー+フィロソフィーの造語)の概念を提唱している。

ガタリの頻出する言葉に、自分たちが慣れ親しみ実在感覚を持つことができる主観性のテリトリーを表す「領土」というものがあるので、これをエコロジーという概念に当てはめれば、社会的エコロジー、精神的エコロジーの意味は理解しやすい。

またその実践には組合的・政治的な活動ではなく、自己の「特異性」によって既成のイデオロギーや社会観、支配的なマスメディアを乗り越え、より不条理性の少ないまともな道へと方向づける必要があると説いている。

支配的主観性のエントロピー的増大をあらゆる手段をもちいて払いのけなければならない。経済的「挑戦」の効率性にいつまでも目をあざむかれつづけるのはもうやめにして、特異化の過程が一貫性を保ちうるような価値世界を再獲得することこそが肝要なのである。(中略)
われわれの生きているこの時代の大きな危機からの脱出は、まさしく、発生期状態の主観性と、変異状態の社会体と、再創造の臨界点に達している環境という三つの要素の節合いかんにかかっているのである。
フェリックス・ガタリ「三つのエコロジー」

2008年の金融資本主義の崩壊により時代は大きな転換を迎えたにも関わらず、われわれは未だにリスクを顧みない利益追求型のビジネスや確率論に頼ったテクノロジー信仰に歯止めをかけることができていない。しかしながら時代を逆回転できるわけではない。自然環境的なエコロジーだけを考えていると、今回のような事態が起きたときヒステリックに急ブレーキをかけてしまい、使い古された社会主義的態度で幼児化してしまいかねない。やはり主観性を持ち、社会状況を見極めながら、考え続けることをやめてはいけない。

そしてこの書は20年以上前の「知」なのにもかかわらず、すでに今回の原発危機に対する解答が書いてあるように思える。

チェルノブイリとエイズによって人間の科学技術能力の限界が突如開示され、「自然」がわれわれに「クランクの逆回転」を運命づけているのかもしれないことが垣間見えた。科学や技術をもっと人間的な目標に向けなおすには、これをさらに集団的に引き受け管理することが要請されていることは明らかである。(中略)
従来にもまして自然と文化を切り離すわけにはいかなくなっているのであり、また、エコシステム、機会領域、社会的・個人的な参照系といったものの相互作用を「横断的に」考えていく習慣をわれわれは身につけねばならないのである。
フェリックス・ガタリ「三つのエコロジー」