業務のためではなく、ディナーの話題づくりのために。聖夜のユーザーエクスペリエンスのために。また UX Advent Calendar 2013 のために書かれたテキスト。
Amuse bouche
架空のUX十字軍が歌うクリスマスキャロル。
テクニカルタームを飾り付けたクリスマスツリー。
サイレントナイトのストーリーテリング。
ジングルベルのシナリオプランニング。
フィクションとしての。
ノンフィクションとしての。
あるいはメタフィクションとしての。
現代の消費社会の中で、この時期が商業主義にいわば「汚染」されているのは、残念なこと。(……)
クリスマスの精神は、「精神の集中」と「落ち着き」と「喜び」であり、この喜びとは、内面的なもので、外面的なものではない。
教皇ベネディクト十六世「お告げの祈り」
Les entrée
東京は夜の七時。
嘘みたいに輝く街。
僕らはここで、記録メディアを所有する必要がないほど、山下達郎の「クリスマスイブ」を耳にしている。この失恋ソングは、今から30年前の1983年に発表された。
もう今では考えられないが、当時はポップカルチャーが時代を代弁していた。
1983年には『戦場のメリークリスマス』が上映され、「メリー・クリスマス、ミスター・ロレンス」の台詞とともに、ビートたけしが映画界における一歩を踏み出した。さらに映画と言えば、フジテレビが社運をかけてVangelisの音楽と白銀の世界を共演させた『南極物語』も、この年に公開されている。
音楽界では、細野晴臣主宰の¥ENレーベルから、日本で初めてとなるクリスマスのコンピレーションアルバムが発売された。もうひとつのクリスマス定番ソングであるワム!の「ラスト・クリスマス」は、リリースこそ次の年だが、タイトル通り去年(1983年)のクリスマスのことを憂う歌である。
そしてこの年に開園した東京ディズニーランドでは、現在も定番のイベントの「クリスマスファンタジー」が大々的に開催された。またクリスマスプレゼントとして多くの子供たちに買い与えられたのは、新発売のファミリーコンピュータであった。
つまりこの1983年、田中康夫が『なんとなくクリスタル』と『たまらなく、アーベイン』を書いた間に、日本の異教徒たちによるクリスマス近代史が始まった。
主にファッション雑誌の煽りによって、クリスマスが恋人たちの行事になったのも、ちょうどこの頃である。
Les potage
それから十数年後、フジテレビが河田町からお台場に引越した頃、インターネット技術とオンライン文化は急速な発展を遂げ、かつて一億総中流社会と呼ばれた一億総リア充社会から、リアルを奪い去った。その結果としてリア充/非リアという21世紀の日本のカーストが生み出された。
そしてクリスマスは、この超格差社会における、年に一度の審判の日となった。
だからクリスマス間近の今日は、ブルーな月曜日。
憂鬱さは、度が過ぎすると、多幸感へと変わると言う。
雨が夜更け過ぎに、雪へと変わるように。
テレビっ子たちが、ネットサーファーに変わったように。
きっと君は来ない。
来たとしても、次の日に僕の心を捨て去るだろう。
しかし、クリスマスはやって来る。
今年も確実に。
Les poisson
さあクリスマスのUXデザインとは何なのか考えよう。
この特別な日に、UXに関わっていない人はデザインされたプレゼントを選ぶが、僕らUX関係者はプレゼントも含めた今宵の経験をデザインする。
いつもの考え方ややり方が、クリスマスのデザインに適用できないのであれば、それはUX関係者にとって致命的だということを自覚しよう。
クリスマスというプロジェクトの成功は、UX関係者の職業的使命なのだ。
さもなくば、また来年も同じ悲劇が繰り返されることになる。
「結局UXデザインって何するの?w」
「え? それでUXとUIって何が違うの?ww」
「へー、じゃあWebとかアプリとか作ってる人ってこと?www」
「てか、人間中心設計専門家って何? 自己中ってこと?wwww」
今年の失態は今年のうちに。
僕らはこういった言説を、圧倒的な行動力と説得力によって打破しなくてはならない。少子化とセックスレスが進むこの国で評価されるのは、コミュニケーションに向かう行動だけなのだから。
Les viandes
ここでもう一度、UXデザインとは何なのか、よーく考えてみよう。
ビジネスに目配せしすぎて、マーケティングという言葉に飲み込まれてしまう前に。
短期的な問題を扱いすぎて、グロースハックに取って代わられる前に。
自分のポジショニングを意識しすぎて、未来の可能性を閉ざしてしまう前に。
特別な誰か(ユーザー)のために、やるべきことをしよう。
クリスマスにおける僕らのターゲットは、いつも一緒にいたり、よく遊んだり、ときどき会ったり、顔見知り程度だったりする、あの彼女(ユーザー)だ。
僕らはあらかじめ、自宅やホテルのドアをCVPにして、このレストランからの導線を、彼女(ユーザー)の動線を設計し、CVR100%というKPIを架している。
彼女(ユーザー)がオンラインに残したあらゆるログを漁り、オフラインでそれとなくデプスインタビューをしながら、ストーキングのようなことを繰り返している。
クリスマス当日には、トナカイが牽引するソリでジャーニーマップを描き、もみの木のツリー構造をくぐり抜けて、彼女(ユーザー)の本質的欲求の鈴を鳴らしながら、銀世界を駆け抜けるだろう。
Les fromage
しかし残念ながら、すべての恋愛は論理破綻している。
これは性差を扱うあらゆる学問によって、幾度も証明されてきた。
僕らは外部の幻想に同一化して自己投影するが、彼女(ユーザー)は内部の幻想に同一化して夢を見る。夢は夜ひらく。
だから街にはいつもポルノグラフィが氾濫するし、いつまで経っても白馬に乗った王子様は現れない。現れたとしても、その王子様は倒錯している。
僕らはいつも論理によって判断を求めるが、彼女(ユーザー)は直感によって物事を決める。または、なかなか決めない。
僕らはいつも言葉によって答えを求めるが、彼女(ユーザー)は言い表わせないことを大事にしている。または、まったく違うことを考えている。
だからせめてクリスマスだけは、論理的な意思決定を止めよう。言葉による問題解決を見送ろう。
日頃の僕らの論理的な判断は、彼女(ユーザー)の直感の解像度を上げるために、僕らの言語による思考は、彼女(ユーザー)の非言語領域のコントラストを高めるために使わなくてはならない。
Les dessert
今日はクリスマス間近のブルーな月曜日。
週末のなかなか終わらないプロジェクト進捗会議中に、こんな気の利いた言葉を思い付いた。
「君とのクリスマス、認識論から考えてみるよ」
このメッセージは、コンサルタントが何食わぬ顔で言う正論であり、雑踏にかき消される権威主義者の知った口、事業担当者が飲み屋で絞り出すアイデア、コンバージョンボタンの上のベネフィットリスト、執拗に追いかけるリターゲティング広告のテキスト、タイムライン上のシェアして欲しげな引用文、匿名掲示板に書かれる犯行声明、電光掲示板に映し出される告白文であり、僕らの今夜の決め台詞である。
内省なき異教徒のクリスマスは、冒頭のローマ教皇の「お告げの祈り」に反している。しかし2013年の僕らは、スノッブに塗れて尚輝く1983年のコンテキストを参照せずにはいられない。彼女(ユーザー)の認識から考えるならば。
その浮かれたナルシシズムを、F1層向けの連続ドラマの続きを、ネオン街の止まらないタクシーを、ラジオから流れるアダルトオリエンテッドロックを、キラキラと虚しく回転するミラーボールを、文化は消費するものだという偏見を、デパートのショーケースを眺める至福を、気高きハウスマヌカンの蔑んだ視線を、シャンパンの泡沫に反射する光を。
そこに舞い降りてくるのは、パウル・クレーが描く天使のように、不完全な姿だろう。
その天使はいつも忘れっぽい。
Digestif ou café
東京は夜の七時。
嘘みたいに輝く街。
彼女がやって来る。
気をつけた方がいい。
彼女は君の心を引き裂いてしまう。
本当に。
いい気にならない方がいい。
その色付いた瞳をのぞきこんでみて。
彼女は君を持ち上げておいてやりこめるつもり。
悪ふざけがすぎる。
Velvet Underground “Femme Fatale”(訳)
僕らは天使のように忘れっぽい。
いつも何かをしてる途中で、方法論に絡め取られて、目的を見失う。
僕らはいつも忘れっぽい。
さっきの台詞もどこかに行ってしまった。
なんて言うんだっけ?
あ、えーーーっと…
「メリークリスマス!」
すべてのUX関係者のクリスマスに、光あらんことを!
(了)