ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』における「リゾーム」の構造を説明するとき、未だに浅田彰『構造と力』の図が引用される。

リゾーム - 浅田彰『構造と力』より

リゾーム - 浅田彰『構造と力』より

この図も決して悪い出来ではないが、さらに動的に、できればもっと立体的に視覚化できないものかと、常日頃から思っていたところ、Marc Ngui というイラストレーターの素晴らしいインフォグラフィックに遭遇した。

『千のプラトー』の緖言である「本書は、章ではなく、プラトー[高原]によって構成されている」に従うと、今回紹介するグラフィックは、この本の最初と2番目のプラトーの視覚化である。

まず最初の「序 リゾーム」は、『千のプラトー』全体の見取り図にあたる。つまりここのグラフィックは二重の見取り図になっている。そして、ツリーマップ状の「樹木」、もしくはルート/ディレクトリマップ状の「根」に対する、階層や中心を持たないダイアグラム状の「リゾーム」は、今ならハイパーリンク/ネットワークの構造に置き換えることもできるだろう。

続く2番目のプラトー「2 一九一四年 —— 狼はただ一匹か数匹か?」では、『アンチ・オイディプス』から続くテーマ、資本主義(資本機械)の内なる倒錯としての精神分析批判が展開される。ここのグラフィックは、精神分析によって主体やオイディプスの三角形(父-母-子)の内に閉じ込められた欲望を開放し、逆に欲望の内にある、彼らがアレンジメントと呼ぶ概念を明かした地図である。

根(racine)/直根(pivotante)+側根(radicle)/地下茎(rhizome)

根(racine)/直根(pivotante)+側根(radicle)/地下茎(rhizome)

これから紹介するグラフィックは、基本的にパラグラフ(段落)単位で作成されている。各グラフィックの下には、対応する本文を引用し添えておいた。

またパラグラフ番号はちくま文庫版のドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー <上>』を参照し、そのページ番号と合わせて表記した。グラフィックと本文でパラグラフ番号がズレている部分(原文と構成違い?数え間違い?)もあったが、すべてちくま文庫版の番号を通した。

この本は欠けたところのあるリングが集まったようなものだと考えていただければいいと思います。ひとつひとつのリングは他のリングと絡み合うことができます。個々のリングというか個々の「プラトー」には、それぞれ固有の気候があり、固有のトーン、あるいは固有の音色がなければならない。概念の書物ですからね。
ジル・ドゥルーズ『記号と事件 1972‐1990年の対話』 – 『千のプラトー』を語る

そしてこれらのグラフィックひとつひとつも、また「プラトー」である。

諸分野を横断する射程、その生成され運動する概念がダイナミックに描写されたインフォグラフィック。これは脱領土化されたテキストの再領土化であり、逃走線によるスケッチである。

序 リゾーム

「序 リゾーム」 - 第4・5パラグラフ

本の第一のタイプは、根としての本である。樹木はすでに世界のイマージュである、あるいは根は世界としての樹木のイマージュである。それは、有機的、意味作用的、主体的な(これらは本の諸地層である)美しき内面性としての、古典的な本である。本は世界を模倣するのだ、芸術が自然を模倣するように——それも固有の手法によってであり、この手法は自然がなしえないこと、あるいはもはやなしえなくなったことを巧みに成功させる。(……)
側根システム、またはひげ根のシステムは、本の第二の形であり、これは現代の人々が好んで援用するものである。この場合、中心の根は中断されてしまうか、あるいはその先端が破壊され、この根に接穂されるのは、大いに発達した副次的な根の数々という、直接的かつ任意の多様体なのだ。
「序 リゾーム」 – 第4パラグラフ(P18)/第5パラグラフ(P20)

「序 リゾーム」 - 第6パラグラフ

リゾームのどんな一点も他のどんな一点とでも接合されうるし、接合されるべきものである。これは一つの点、一つの秩序を固定する樹木ないし根とはたいへん違うところだ。(……)
言表行為の集団的アレンジメントは事実、直接に機械状アレンジメントにおいて機能するのであり、もろもろの記号の体制とそれらの対象のあいだに根本的な切れめを設定することはできないのである。(……)
リゾームは記号論的鎖の輪や、権力の諸組織や、芸術、学問、社会的闘争にかかわる出来事などをたえず連結し続けてやまないであろう。
「序 リゾーム」 – 第6パラグラフ(P23)

「序 リゾーム」 - 第10パラグラフ

植物たちの智慧——たとえ根をそなえたものであっても、植物には外というものがあり、そこで何かとともに——風や、動物や、人間とともにリゾームになる(そしてまた動物たち自身が、さらには人間たちが、リゾームになる局面というのもある)。「われわれの中に植物が圧倒的に侵入するときの陶酔」。
「序 リゾーム」 – 第10パラグラフ(P31)

「序 リゾーム」 - 第14パラグラフ

正反対だけれども対称的ではない操作を試みることが実に重要なのである。複写を地図につなぎ直すこと、根または樹木をリゾームにもたらすことだ。(……)
つねに地図の上に袋小路を置き直し、こうして袋小路を可能な逃走線に向かって開いてやるべきだろう。(……)
リゾームのうちにも樹木や根の構造が存在する。けれどもまた反対に樹木の枝や根の一片がリゾームとして発芽しはじめることもありうるのだ。
「序 リゾーム」 – 第14パラグラフ(P37)

「序 リゾーム」 - 第15パラグラフ

思考は樹木状ではなく、脳は根づいた、あるいは枝分かれした物質ではない。(……)
短い記憶はリゾーム・タイプ、ダイアグラム・タイプであるのに対し、長い記憶は樹木状であり中心化されている。短い記憶は少しも、対象との隣接性あるいは直接性の法則にしたがっているわけではない。隔たりを持ち、長いことたった後に到来し再来することもありうるのだが、つねに不連続性と断絶と多様体が条件となる。そればかりか、二つの記憶は、同じ事物を捉える二つの時間様態として区別されるものではない。それら二つが捉えるのは同じ事物ではなく、同じ思い出でも、同じ観念でもない。
「序 リゾーム」 – 第15パラグラフ(P40)

「序 リゾーム」 - 第16パラグラフ

序列的構造の優位を認めることは樹木状構造を特権視することに帰着する。樹木状形態はトポロジックな説明を認める。序列的システムにおいては、一つの個体はたった一つの活動的隣接者しか、つまり序列上彼に対して上位にあるものしか認めない、伝達の経路はあらかじめ設定されている——樹木状組織はその中のある決まった場所に統合される個人に先立って存在している。
「序 リゾーム」 – 第16パラグラフ(P42)

「序 リゾーム」 - 第17パラグラフ

戦争機械、あるいは火器部隊の問題はこうだ——n人の個体が同時に発砲の状態にいたるために、一人の将軍は必要か?有限数の状態とそれに対応する速度の信号を含む非中心化された多様体にとっては、<将軍>なしの解決が、戦争リゾームないしはゲリラの論理の観点から見出されている。(……)nは、そうである以上、まさしくつねにn-1である。
「序 リゾーム」 – 第17パラグラフ(P44)

「序 リゾーム」 - 第20パラグラフ

アメリカは方位を逆転させた——その東方(オリエント)を西部に置いたのだ、あたかも大地がまさにアメリカにおいて円くなったかのように。アメリカ西部は東部の縁そのものなのである。
「序 リゾーム」 – 第20パラグラフ(P48)

「序 リゾーム」 - 第24パラグラフ

プラトー[高原・台地]はつねに真ん中にある。始めでも終わりでもない。グレゴリー・ベイトソンは「プラトー」という語を、きわめて特殊なものを指すのに用いている。すなわち、さまざまな強度の連続する地帯、みずからの上に打ち震え、何かある頂点へ、あるいは外在的目標に向かうあらゆる方向づけを回避しつつ展開される地帯である。(……)
例えば、一冊の本は章から構成されるかぎり、それなりの頂点、それなりの終着点をそなえている。逆にもろもろのプラトーからなる本、脳におけるように、いくつもの繊細な亀裂によってたがいに通じ合うプラトーからなる本の場合は、どのようなことが起きるであろうか?一つのリゾームを作り拡張しようとして、表層的地下茎によって他の多様体と連結しうる多様体のすべてを、われわれはプラトーと呼ぶ。われわれはこの本をリゾームのようにして書いている。それをさまざまなプラトーによって構成した。
「序 リゾーム」 – 第24パラグラフ(P53)

「序 リゾーム」 - 第24パラグラフ(P53)

リゾームになり根にはなるな、決して種を植えるな!蒔くな、突き刺せ!一にも多にもなるな、多様体であれ!線を作れ、決して点を作るな!スピードは点を線に変容させる!速くあれ、たとえ場を動かぬときでも!幸運の線、ヒップの線、逃走線。
「序 リゾーム」 – 第26パラグラフ(P59)

 

2 一九一四年 —— 狼はただ一匹か数匹か?

「2 一九一四年 —— 狼はただ一匹か数匹か?」 - 第1パラグラフ

その日<狼男>は、いつになく疲れはてて長椅子から立ち上がった。彼にはわかっていた。フロイトが真実にまさに触れようとしては脇を通りすぎてしまい、それから空白の部分をもろもろの連想で埋めるという点で天才的なことが。
「2 一九一四年 —— 狼はただ一匹か数匹か?」 – 第1パラグラフ(P65)

「2 一九一四年 —— 狼はただ一匹か数匹か?」 - 第3パラグラフ

いつも無意識の実に偉大な手法、分子的な多様体の手法を発見すると、たちまちフロイトはモル的な統一性にもどり、彼のおなじみの主題、定冠詞つきの父、ペニス、膣、去勢……などを見出す(リゾームを発見する手前のところで、フロイトはいつも単純な根にもどるのだ)。
「2 一九一四年 —— 狼はただ一匹か数匹か?」 – 第3パラグラフ(P67)

「2 一九一四年 —— 狼はただ一匹か数匹か?」 - 第6パラグラフ

無意識における繁殖の問題——分裂症者の毛孔や麻薬中毒者の静脈を通っていくすべて、つまりさまざまなひしめき、蠢き、興奮、強度、もろもろの種と族。(……)ユングはあるときいくつもの骸骨と髑髏の夢を見た。骨も骸骨も、決して単独で存在することはない。骨の集まりとは一つの多様体なのである。けれどもフロイトは、それが誰かの死を意味していると言い張る。
「2 一九一四年 —— 狼はただ一匹か数匹か?」 – 第6パラグラフ(P71)

「2 一九一四年 —— 狼はただ一匹か数匹か?」 - 第9パラグラフ

強度において理解すべきだったのだ——狼とは群れなのだ。つまりあるがままに一瞬にして把握される多様体、ゼロへの接近と遠ざかりによって、そのたびに分解不可能な距離によって把握される多様体なのだ。ゼロとは<狼男>の器官なき身体である。(……)
<狼男>の歯茎は膿疱や小さな孔で覆われていた。卓越した強度としての顎、尖った強度としての歯、そしてゼロへの接近にほかならぬ膿疱で覆われた歯茎。(……)
顎と狼は一つの多様体を形成し、これが他の距離によって、他の速度にしたがって、他の多様体とともに、さまざまな閾の限界において、眼と狼に、肛門と狼に変化するのだ、逃走線の、あるいは脱領土化線の数々、<狼になること>、脱領土化された強度が非人間的なものになること、多様体とはこうしたものである。
「2 一九一四年 —— 狼はただ一匹か数匹か?」 – 第9パラグラフ(P75)

「2 一九一四年 —— 狼はただ一匹か数匹か?」 - 第10パラグラフ

あの多様体の物語に立ち戻ろう、このような実詞が産み出されたのは、実に重要な瞬間だったからだ、それはまさに多様なものと単一なものの抽象的な対立から逃れるため、弁証法から逃れるため、多様なものを純粋状態で思考するため、多様なものを、失われた<統一性>や<全体性>の数値的な断片に、あるいは逆に、来たるべき<統一性>や<全体性>の有機的要素に仕立てあげるのをやめるため——そしてむしろ、いろいろなタイプの多様体を弁別するためだった。
「2 一九一四年 —— 狼はただ一匹か数匹か?」 – 第10パラグラフ(P78)

「2 一九一四年 —— 狼はただ一匹か数匹か?」 - 第10パラグラフ

数学者で物理学者のリーマンにおいては、離散的多様体と連続的多様体の区別が見出される。さらにマイノングとラッセルにおいては、外延的な、量または可分性の多様体と、より強度[内包]的なものに近い距離の多様体の区別が見出される。あるいはまた、ベルクソンにおいては、数値的または延長的な多様体と、質的かつ持続的な多様体の区別がある。
「2 一九一四年 —— 狼はただ一匹か数匹か?」 – 第10パラグラフ(P78)

「2 一九一四年 —— 狼はただ一匹か数匹か?」 - 第13パラグラフ

一つの同じアレンジメントを形成し、同じアレンジメントにおいて互いに作用しあう多様体の多様体があるだけである。つまり群集の内部にも群れがあり、そしてその逆もある。樹木はさまざまなリゾーム状の線をそなえているし、反対にリゾームの方もさまざまな樹木状の点をそなえている。
「2 一九一四年 —— 狼はただ一匹か数匹か?」 – 第13パラグラフ(P81)

「2 一九一四年 —— 狼はただ一匹か数匹か?」 - 第14パラグラフ

その人に固有の群れを、つまりその人が自分の中に閉じ込めている、おそらくまったく別の性質をそなえたさまざまな多様体を探すこと。それらを自己の多様体と合体させること。それらを自己の多様体に入りこませ、それらに入りこむこと。天上的な婚礼、多様体の多様体。
「2 一九一四年 —— 狼はただ一匹か数匹か?」 – 第14パラグラフ(P83)