前回の「ラカン理論のインストール手順 1」に続き、ラカンの入門書の紹介を。

Intellectual Magpie

図解のある入門書

フィリップ・ヒル『ラカン』

フィリップ・ヒル『ラカン』

マクルーハンとか西洋哲学関連のものでおなじみの、ちくま学芸文庫「BEGINNERS」シリーズのラカン編。

こちらも前回紹介した『生き延びるためのラカン』と並んで、入門書を読む前に読むべき入門書としてオススメできる。

『生き延びるためのラカン』が社会現象やサブカルチャー全般を参照しながらラカン理論を説明しているのに対し、本書は古代ギリシャ哲学を出発点にして、他の学派と比較を交えつつ、主要な精神分析用語の再解釈に努める、オーソドックスな構成である。

またラカンの人となりの紹介にもページを割いており、ラカンが無神論者だったことなど、本書で初めて知ったこともあった。年表とブックガイドも充実していて使える。

図解のある入門書のよさは、文脈が目で見て取れるところ。本書もテキストだけで構成されたものに比べると、立ち返る場所が参照されやすいだろう。

ラカン(FOR BEGINNERSシリーズ)

『ラカン(FOR BEGINNERSシリーズ)』

現代書館の「FOR BEGINNERS」シリーズのラカン編。

図解や絵のタッチが個人的に趣味なので好きなシリーズなのだが、このラカン編は広範囲の理論を一気に説明しようとして、全体的に脈略がなくなっている。きっとこの一冊から読み始めたのでは、理解できるどころか、余計に混乱してしまうだろう。図解付きの入門書としては、しっかり文脈を追って理解できるフィリップ・ヒルが決定版であると言える。

しかしここまで広い理論をカバーしている入門書は多くない。必要最低限のキーワードで理論を説明しているフィリップ・ヒルの本が、改めて立ち返る場所として使えるのに対し、本書は副読本として自分のイメージと照らし合わせるのに使うのが最適ではないかと思う。

The Name Of The Father

さらに理解を深めるための入門書

負のラカン

石田浩之『負のラカン』

こんなに優しさに溢れたラカン本も珍しいので、長い間絶版なのが残念でならない。

真っ黒の表紙に浮かぶネガ/ポジ反転したラカンの写真、そして冒頭の「無は問題とはなりえない。……問題は、欠如、喪失、空虚、不在といった、それぞれまったく異なった性質のもののさまざまなあり方を規定することである。」というラカンの引用に、「負のラカン」を明らかにするという本書のテーマが込められている。

つまりラカン用語で「/」と表記されるもの、「ないもの」という概念を紐解いていくことで、シニフィアン(本書では「能記」と妙訳されている)の優位と連鎖、ファルスにおける「欠如」「喪失」の意味が明らかになり、それらの位相が掴めるようになってくる。

わかりやすい例として、ラカンも繰り返し引用する、フロイト『快感原則の彼岸』における”Fort-Da”のエピソードの構造分析を参照したい。

これは、フロイトが自分の孫(一歳半の男の子)を観察していると、母親が「不在」のあいだ、”Fort!”(いない)/”Da!”(いた)と叫び声をあげながら、糸巻きを放り投げたり、たぐり寄せたりして遊んでいたというエピソードで、ここから現実界/想像界/象徴界における「不在」という概念の違いが浮かび上がってくる。

ものの殺害(象徴作用)

ものの殺害(象徴作用)

母親の「不在」は形のないものであるが、それを原動力にして、子供は「不在」という概念を想像的に取り入れた糸巻き遊びを考案する。この糸巻きの「不在」はラカンの言う<対象a>であり、当然これも形がないものである。そしてこの「不在」を「いない」という言葉(シニフィアン)で表したとき、初めて「不在」自体が現前する。この象徴作用をラカンは「ものの殺害」と呼んでいる。

またラカンは『エクリ』において、「象徴界の秩序のなかでは空虚(=0)は、充実(=1)と同じように意味がつまっている。」と表現している。この引用は前回の、象徴界とは映画『マトリックス』のコードの世界である、という比喩の裏付けにもなるだろう。

ラカン理論 5つのレッスン

J=D・ナシオ『ラカン理論 5つのレッスン』

ラカンのセミネール形式を模して書かれた5つのレッスン。5つの基本理論「享楽」「無意識」「対象a」「幻想」「身体」に加え、「主体」に関する別の講義も収められている。テーゼや結論を見出しに細かく置いた構成が、非常に読みやすい。

『負のラカン』を読んだ人にとっては繰り返しになる部分もあるが、シニフィアンや「享楽」をその運動的側面から説明しいるため、違う文脈での理解ができると思う。その中でも特に重要なのは、「幻想」と「享楽」の理解だろうか。

「幻想」とは、「享楽」を核として、その周りに構造化されるもの。そして「幻想」を構成するのは失われた主体(S/)で、<対象a>は動力因、シニフィアン(◇)は作用因となる。したがって「幻想」がS/◇aという表記で形式化されている。

「享楽」に関しては、本書の図解を引用したい。「享楽」に対する「症状」と「知」の関係、それらに関連したラカンによるテーゼが配置されている。

症状/知/享受の関係図

症状/知/享受の関係図

その次に読まれるべき入門書

ラカンの精神分析

新宮一成『ラカンの精神分析』

これも広く知られたラカン入門書。

フランスの精神分析学会における政治背景、フロイトやエメとの運命的な関係などに加え、筆者の臨床経験などを物語として紡いでいきながら、その中にラカン的事象を見ていく。ジジェクのような派手さはないが、話としての完成度が高く、何度も読んで内容を掘り下げていくことができる良書である。

本書のテーゼである「<対象a>は黄金数である」を裏付けていくプロセスが、幾分トートロジカルに感じられたが、「これら一連の操作は論理的でないように思われるかも知れない」と前置きした上で、最終的に「メタ言語は存在しない」という定言に結びつけられ納得した。つまり先の2冊に比べて、本書は極めてラカン的なテキストで書かれている。

「わたし」のことを語ろうとすればするほど「わたし」はそこにはいない。精神分析における自己言及のパラドックス(去勢コンプレックスの前の)「子供時代は、そのものとしては、もうない」を、デカルトにおけるコギト、ヴィトゲンシュタインにおける独我論、言語論における意味論的パラドックスという不完全性定理と比較した下図も、理解の助けになるだろう。

自己言及の不完全性

自己言及の不完全性

この絵の中の男は、自分の後ろ姿を見ているように思われる。しかしそれは本当か。男と反対側を向いた、同じ服を着たもう一人の男が、鏡に映っているだけかもしれないではないか。いやもし、この男が確かに、彼の鏡像を見ているのだとしても、彼は、それが自分の鏡像だということを、いったいどうして知りうるのか。彼は自分の後ろ姿を見たことはないはずではないか。
新宮一成『ラカンの精神分析』

La Reproduction interdite - Réne Magritte, 1937

La Reproduction interdite - Réne Magritte, 1937

性倒錯の構造 - フロイト/ラカンの分析理論

藤田博文『性倒錯の構造 – フロイト/ラカンの分析理論』

ヘテロセクシャルな男/女はお互いを欲望の対象とするが、母という「女」からしか子供は生まれてこないので、男/女の関係は対称性でないと証明される。本書は、この男/女の非対称性を病理と捉え、さまざまな性倒錯の構造について分析を行っている。

まず基本構造となる男/女のすれ違いは、冒頭で引用されるアントワーヌ・ティダル『西暦二千年のパリ』の、「男と愛の間に、女がいる。男と女の間に、世界がある。男と世界の間に、壁がある。」という言葉によって表される。

男はS/(主体)としてa(対象a=愛)を目指し、そこにLa/(<対象a>と似て非なるもの=女性的主体)を見い出す。先ほどの引用にΦ(ファルス)の概念を持ち込むと、「S/とaの間に、La/がいる。S/とLa/の間に、Φがある。S/とΦの間に、壁がある。」と展開される。これは「性関係は存在ない」というラカンのテーゼと重なり合い、これが男/女の非対称性における病理の論理式となる。

これをベースに構造分析を行うと、例えば「マゾヒズムと死の欲動」と「サディズムの病理」は次のように説明できる。

死の欲動とサディズム/マゾヒズムの関係

死の欲動とサディズム/マゾヒズムの関係

また「『クルマ好き』の精神病理 日本人とフェティシスム」の章で示される病理は、正にこの歌詞が言い表している。

馬みたいな車と 車みたいなギターと
ギターみたいな女の子が欲しい
ゆらゆら帝国「グレープフルーツちょうだい」

臨床系の入門書/事典

ここで、臨床寄りの入門書と、キーワードの参照先として事典にも、簡単に触れておきたい。

ラカン派精神分析入門 - 理論と技法

ブルース・フィンク『ラカン派精神分析入門 – 理論と技法』

『エクリ』の英訳もしているブルース・フィンクの著作。ジジェクの『ラカンはこう読め!』でも臨床面における最良の入門書として紹介されている。

症状を例にして、ラカンを短く引用しつつ、基本理論を説明していく。臨床寄りの読者を想定して書かれているが、理論系の入門書としても充分使えるだろう。

しかし理論にしか興味がない人間にとっては、冗長に感じることもありそう。ただこの印象は、個人的にめぐりあうタイミングが遅くて、ダブりが多いと感じたからかも知れないが。

ここまででわかったことは、タイトルや副題に「精神分析」と入っている書籍は、基本的に臨床向けとして書かれてるってこと。少し考えれば当たり前のことなんだが、気付くのが遅かった。

フロイト&ラカン事典

P.コフマン『フロイト&ラカン事典』
R.シェママ『精神分析事典』

ラカン関連の代表的な事典はこの2つ。

『フロイト&ラカン事典』は原題が『フロイトの寄与 – 精神分析百科事典のための基本事項』であり、『精神分析事典』もフロイト=ラカン派の著書なので、どちらもラカンまでの解釈を含んだフロイト事典といった内容である。

『フロイト&ラカン事典』はキーワードに対する筆者の解釈が多く含まれたテキストであるため、わからない用語を調べたつもりが、さらにわからない範囲が広がることがある。いろいろ調べものに使わせてもらったが、素人が扱う代物ではないといった印象を持った。

『精神分析事典』の方は、ラカンに関するキーワードは少なくなるが、説明が簡潔なので取り扱いやすいだろう。

なお、『フロイト&ラカン事典』は二部構成になっていて、第一部は「基本項目」と題した事典。そして第二部の「精神分析と26の関連分野」は、医学や言語学や社会学など26の他分野と精神分析を比較した、他にありそうでないテキスト。こちらが読み物としてなかなか面白い。

というわけで、今回はここまで。

次回はラストで、「欲望のグラフ」の解読、ラカンのトポロジーとソーカル事件、そして遅ればせながら『セミネール』『エクリ』についても触れたいと思う。