「ラカン理論のインストール手順 3」に書いた「夜戦と永遠、<他者>の享楽と非神学」の続き。「女性の享楽」のところの反復、または神秘主義のラカンについて。
佐々木中によるラカン講義の私的メモ。
神秘主義/宗教
神学(theology)とは、神(theo)による言葉(logy)である。
神秘(mystic)とは?
「目が閉じる」を意味する。13世紀に初めて出て来た言葉で、一般化したのは16世紀。しかし、16・17世紀の神秘主義(mysticism)はキリスト教に敗北(流産)した。
宗教(religio)とは?
「絆を結ぶもの」「選んで読むもの」を意味する。しかし当然、世界三大宗教が始まったとき、「宗教」という言葉はなかった。ラカンに倣って言うと、これは「宗教はない」ということになる。
社会/資本主義
同じように、例えば、江戸時代に「社会」はない。これは社会学の創始者であるデュルケームが言うように、「社会」があることを無条件に前提として考えてはならないということである。
では「資本主義」についてはどうだろうか?
「資本主義」は等価交換を前提にしており、その市場がなければ交換が成立しない。そこで利益をもたらすものは、違う社会/階級における価値体験の「差異」である。それはマルクスを引くまでもなく「搾取」と呼べるであろう。
モースは『贈与論』において、こうした贈与/交換の体系を分析した。
その前提として、われわれが最初に贈与されたものは、この世界である。そしてわれわれにこの世界を贈与した者は、神である。神がわれわれにこの世界を贈与した理由、それは「愛」と呼ばれるもの以外の何であろうか。しかし次の瞬間、最初の「搾取」が始まる。そうして『贈与論』は資本主義批判として読まれる。
キリスト教/イスラム教
もう一度「宗教」に戻る。
「キリスト教」が一神教であるにも関わらず、神とザクロ酒を飲み、一夜を共にする。これはどうゆうことか?これは無神論者の言論ではないか?
ドゥルーズ曰く、「無神論が宗教の外にあった試しはない」と。では神はどこにいるのか?
イスラムにおける「アッラー以外に神はなし」の本来の意味は、「神はいない、しかしアッラーについてはわからない」であると言われる。時間と空間を作った神が、その時空に現れることはない。それはイエス・キリストも同様ではないだろうか。
ではキリストの、その身体はどこに現れるのか?
概念/孕まれたもの
ドゥルーズ曰く、「哲学とは概念の創造である」。
「概念」(concept)とは、ラテン語の conceptus を語源とする。これは本来「孕まれたもの、受胎されたもの」の意味である。
つまりキリストとは、マリアの概念化(conceptio)によって産み出された概念(conceptus)である。またキリストは、神学文献において”Verve”(神言葉)と同義とされる。よって、この世界は「書かれたもの」であり、それは「キリストの身体」であると言える。
女性の享楽/聖母マリアを反復する企て
またドゥルーズは「書く理由のなかで最良のもの、それは男であることの恥ずかしさである」とも言っている。
「女性の享楽」とは、花嫁として神を迎え、神言葉(Verbe)であるキリストを産むことである。テキストを、文を、書くことである。これは「神秘主義」の、神秘家たちによる「聖母マリアを反復する企て」である。そうして「差異」は産み出され、それによってのみ新しい世界は創造される。
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