World IA Day 2013 での考察。フィルターバブルから考える、IA(インフォメーション・アーキテクト)が引き受けるべきもの。
IA を再定義する意図
先月開催された World IA Day 2013 のテーマは、「情報アーキテクチャの価値体系を探求・拡大する」であった。これは「IA(インフォメーション・アーキテクト)という職業的アイデンティティを再定義する」と言い換えることができる。
IA とは、情報を整理し組織化する職種である。しかしその技能を通じて、情報の受信側にどのような価値を提供するかまでは、はっきりと定義されていない。だからその裁量は、一人ひとりの IA に委ねられていることになる。
実は IA の再定義というテーマは、こうした問題を認識してもらうために、すこし意図的に設定されたものであった。
このような議論において、今でも優勢なのは「リチャード・ソウル・ワーマンによる最初の定義に立ち返れ」というイデオロギーである。ワーマンによれば、人工物だけでなくアイデアや方策などの構造化までが IA の範疇であり、TED の創設もその延長線上に過ぎない。
フィルターバブルによる権力格差
その TED カンファレンスにおいて、『フィルターバブル(邦題:閉じこもるインターネット)』の著者イーライ・パリサーは、インターネットにおけるパーソナライゼーションの危機を訴えた。(TED:イーライ・パリザー「危険なインターネット上の『フィルターに囲まれた世界』」)
著書によれば、われわれがインターネットを通じて見る情報は、基本的にパーソナライズされており、他人と同じではない。Google や Facebook などのオンラインツールは、生活のインフラとして透明化し、知らず知らずのうちにわれわれの思考や行動を制限している。
新しいインターネットの中核をなす基本コードはとてもシンプルだ。フィルターをインターネットにしかけ、あなたが好きなこと——あなたが実際にしたことやあなたのような人が好きなこと——を観察し、それをもとに推測する。(……)このようなエンジンに囲まれると、我々はひとりずつ、自分だけの情報宇宙に包まれることになる。わたしはこれをフィルターバブルと呼ぶが、その登場により、我々がアイデアや情報と遭遇する形は根底から変化した。
イーライ・パリサー『閉じこもるインターネット』(P.19)
例えば推薦システム(Recommender System)では、過去の自分の嗜好によって現在の自分に提供される情報が決定する。そのため計画的な向上心より衝動的な欲求が優先されることが多く、その結果として創造性が欠如する傾向になると考えられている。
本来的にわれわれの認知は、スキーマによって情報を圧縮し、シンプルな理解を目指しているので、それを補足するフィルタリング技術は問題にはならない。問題なのは、われわれが望む望まないに関わらず、パーソナライズされた世界(フィルターバブル)に孤立させられることである。つまり情報の提供側/受信側、見る者/見られる者の間に生じる権力格差が問題なのである。
パリサーによれば、適切な情報提供がされていないのは、現在のアルゴリズムが「倫理観」を持ち合わせていないことに起因している。そしてこの状況が続けば、やがて民主主義が機能しなくなるのではないかと危惧している。
アルゴリズムからユーザー体験へ
World IA Day 2013 には、パーソナライズされたニュースを配信するサービス Gunosy の開発者である関喜史氏が登壇した。
そのセッションでは、2011年の推薦システムカンファレンス RecSys の「推薦システムとフィルターバブル」という題目のパネルディスカッション(Panel on The Filter Bubble)の紹介がされた。
膨大な情報に対するフィルタリング技術は不可欠であるため、推薦システムとフィルターバブルは本質的にトレードオフである。しかし推薦システムのコミュニティはフィルターバブルに対する透明性・説明性を確保しなければならない。以上が RecSys のパネルの論旨であった。
つまりここでは、設計意図を公開しなければならないというコミュニティの「倫理観」が、技術決定論に対する抑止力として働いている。
また推薦システムはあくまでユーザーの行動を予測するモデルであり、ユーザー体験(UX)を考慮した例はあまりないらしい。したがって推薦システムの評価方法にも、まだ問題が残っている。
そしてこのセッションの最後は、今後の推薦システムのあり方として「IA の知見を指標化・定式化し、IA によって活用の目的変数が定義されることが望まれる」と締めくくられた。
IA のモダニズム運動
繰り返すと、World IA Day 2013 での問いかけは、IA の再定義であった。
IA によって、IA のアイデンティティを解体して再構築する。これはコミュニティにおける自意識の芽生えと言えるものであり、これまでさまざまな学問や思想、芸術、建築、デザインなどの領域において起きたモダニズム運動に似ている。だからこの再定義は、普段当たり前とされていることへの疑いから始めなくてはならない。
例えば、利益の最大化を目指すこと、新しい価値を創造すること、利便性を追求すること、ユーザー中心主義の方法論を依りどころにすること、文化的なコンテキストを優先すること。これらはすべて設計者の作家性である。しかし主観的にしか語りえない設計思想である。
フィルターバブルのような社会問題に対して、どのような姿勢で取り組むのか。その答えを求められるとき、IA は自身の「倫理観」に対して、自覚的にならずにはいられないだろう。なぜならその「倫理観」こそが、本来の設計思想であり、再定義されるべき IA の本質的要素だからである。
スピノザとカントの倫理学
観念を問題にするところから始まり、政治や宗教などを経て、やがて「倫理学」にたどり着く。ヨーロッパの思想家は、大体こんな道筋を通って成熟していく。
だから今モダニズムの段階にある IA が「倫理観」について考えることは、コミュニティが成熟に向かう過程と考えられる。
ではどのように「倫理観」を考えればよいのだろうか?
その回答として、最後にこれまでこのサイトで書いた「倫理学」に関するテキストを引用したい。1つ目はスピノザ『エチカ』、2つ目はカント『実践理性批判』を咀嚼したものである。
これらのテキストが、「倫理観」を考えるフレームワークとして、設計の「足場」になるなら、これ以上に嬉しいことはない。
「社会」に強制されて(「意見・表象」によって)行動するのではなく、「社会」における共通概念を頼りにして(「理性」によって)行動するのでもなく、「社会」の観念を発見し、そこに法則を見出す自分自身に指導されて(「直観知」によって)行動することが、「活動能力の増大」へ向かうこと
ソーシャルデザインの倫理学 – OVERKAST
カントは、感性的な要因(パトローギッシュ)によって、何かよいことをして気持ちよくなるのは病的であり、それを乗り越えるためには、「定言命法」に従って生きることが必要であると説く。つまり行為のたびに、その行為が普遍的かどうか判断することが倫理的であるとし、これを上級の「欲求能力」として区別している。その結果として得られるのは、「知的満足」である。
欲望と快楽の倫理学 序章 – OVERKAST
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