近頃マクルーハンの名前を(この際『マーシャル・マクルーハン広告代理店』も含め)よく見かけると思ったら、先月で生誕100年だったようだ。その記念に、それもかなり前に『マクルーハン – 生誕100年、メディア(論)の可能性を問う』という本が出ていて、内容も非常に興味深かった。
60年代のいわゆる「マクルーハン旋風」に始まり、80年代のメディア論/記号論を経由した再評価、90年代のPC/インターネット文化における再解釈と、マクルーハンは何度も読み換えられてきた。そして2010年代、100年目のマクルーハンも、まだまだ「使える」ようである。
というわけで、マクルーハンについて最近気がついたこと、今も「使える」理論とその理由、言っておいた方がよさそうな誤解などを、モザイク的なメモとして書き留めておきたい。
『グーテンベルクの銀河系』は引用とコラージュからできています。マクルーハンは知識のあらゆる領域に、私がサイレンスと呼んでいるものを適用している。つまりそれぞれの領域に語らせているんです。書物の死は言語の終焉ではなく、言語は存在し続ける。私の作品にはサイレンスが溢れてきたのに、やはり音楽があるのと全く同じようにね。
ジョン・ケージ『小鳥たちのために』– 文字におけるモザイク式形態または偶然
メディア論というアプリケーション
マクルーハンの代表作である『グーテンベルクの銀河系』や『メディアの理解(メディア論)』は、その淡々とした書かれ方のせいで、おもしろい思想・哲学書のような、読んでいて引き込まれるような感覚になることはない。しかし多くの哲学書が時代遅れになってしまう中、マクルーハンの理論は今もその新鮮さを失っていない。
それはマクルーハンの理論が、容れ物の中身を入れ換えることで、新しい事象に応用することが可能な概念装置だからだろう。つまりアプリケーション的なのである。
これがマクルーハンが今も「使える」理論である所以であり、預言者と捉えられてしまう理由ではないかと思う。
預言者でもトリックスターでもなく
また預言者と思われるのと同じように、ポップカルチャーに広く浸透した「ホット対クール」などの標語、それからメッセージ(Message)/マッサージ(Massage)/混沌の時代(Mess-Age)/集団の時代(Mass-Age)といったワードプレイのせいで、マクルーハンには何かとトリックスターのイメージが付きまとっている。
しかしマクルーハンはあくまでメディア批評家であり、メディアに対して戦略的にアプローチをしていっただけである。急進派と思われがちだが、一貫して保守派であり、新しいメディアに対しても常に懐疑的であった。
「グローバル・ヴィレッジ」の誤解
マクルーハンの名前を個人的に知ったきっかけは、「グローバル・ヴィレッジ」の概念からだった。
その頃、90年代初頭は、60年代の理想主義的な価値観を受け入れやすい時代だったと思う。そんなセカンド・サマー・オブ・ラブの熱狂を醒ます(チルアウトする)ための音楽として、ミックスマスター・モリスが Irresistible Force という名義で『グローバル・チレッジ』なんてタイトルをリリースしていた。
そんな流れで「グローバル・ヴィレッジ」に辿りついたので、バックミンスター・フラーの『宇宙船地球号』や、スチュアート・ブランドの”Whole Earth Catalog”と並んで、全球的な視座の共同体幻想と捉えていた。これは完全な間違いでもないが、正解ではない。なぜなら、マクルーハンは少しも理想郷のことなど語っていないからだ。
「部族的な地球村(グローバル・ヴィレッジ)は、いかなるナショナリズムと比べても、はるかに分裂的です。紛争に満ちています。村の本質は、分裂であって、融合ではない。」
W・テレンス・ゴードン『マクルーハン』
ホット/クールの誕生
ホット/クールの定義のわかりにくさ、分類の曖昧さも、よく指摘されるところである。たしかにマクルーハンもホット/クールの違いを、情報の「解像度の高さ/低さ」、「参加度の低さ/高さ」という定義でしか示していないし、他のマクルーハン本でもなかなか腑に落ちる説明は見当たらない。
さて、このホット/クールがジャズのスラングから応用されたという話は有名である。マクルーハンのホット/クールが誕生したのは、モダンジャズも終わりに近い1964年。つまり1949年のマイルス・デイヴィスの『クールの誕生』から15年経ち、ハードバップは徐々に廃れてきており、西海岸の白人を中心にクール・ジャズが人気を博している時代である。こうした時代背景を念頭に置くと、ビバップ(ハードバップ)の「ホット」とクール・ジャズの「クール」が、二項対立として設定された理由が見えてくる。
「ホット」なビバップはチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーなどの強者たちによるインタープレイの応酬であり、音の密度は高く(解像度が高い)、その熱狂的なセッションに参加することは難しい(参加度が低い)。逆に「クール」ジャズは風通しがよく、音数は少ない(解像度が低い)。またアドリブが控え目な演奏なので、参加もしやすいだろう(参加度が高い)。
「メディアはメッセージである」のメディアの中身
ひとつのメディアが他のメディアを使うとき、「内容」となっているのはユーザーだ。自動車が貨車に載せられているとき、この自動車は鉄道を使っているのだ。そして、この自動車は鉄道の「内容」であり、高速道路の「内容」でもあるのだ。印刷術が手書き本を使い、テレビが映画を使い、映画が演劇を使い、書記が声を使うときにも同じことがいえる。
エリック・マクルーハン&フランク・ジングローン『エッセンシャル・マクルーハン』
「メディアはメッセージである」というテーゼにも、触れないわけにいかない。
メディアの中身は別のメディアである。これはすなわち「コンテンツはない」ではなく、「コンテンツもメディアである」という理解が正しい。しかしここではメディア/コンテンツ論はあまり問題にならない。
われわれはパソコンで、youtubeなどを通じて、テレビで放送されたものを、例えば映画を、映像として見ることができる。(当然ここでも著作権は問題にしない。)映像の中には連続する画像があり、音の情報もあるだろう。大抵の場合、画像の中には書き言葉が、音声の中には話し言葉がある。その話し言葉には書き言葉が包容されている。さらに書き言葉の中には思考があり、これが最小単位のメディアである。
つまり新しいメディアの中身は古いメディアが入れ子構造になっているわけである。また古いメディアから新しいメディアに翻訳されるたび、われわれの感覚比率に影響を及ぼす。
メディアの設計こそメッセージである。こうした技術決定論(メディア決定論)的な語り口には批判が多く、マクルーハン自身も決定論ではないと否定している。しかしこのテーゼは現在の情報システム環境における制度設計の重要性を軽く言い当てているように思える。そしてマクルーハンが言う「メディアはわれわれにとって新しい自然になる」は、すでに現実のものになっている。
メディアのマッサージ師たちと宇宙時代
「メディアはマッサージである」。そうした書き間違え/言い間違いによるワードプレイをマクルーハンは楽しんだ。同時にそうすることで、自分のテーゼがクリシェになるのを拒んだ。
1967年3月、『メディアはマッサージである』はクエンティン・フィオーレの画期的なブックデザインが施され、「わかりやすいマクルーハン本」として出版された。フィオーレは後にイッピーのバイブルである、ジェリー・ルービン『Do It! – 革命のシナリオ』を手掛けた人物でもある。
またその2ヶ月後、ジョン・サイモンによって作られたレコード音源が、同じタイトルでリリースされる。これはさまざまな音源のテープコラージュで、マクルーハンとフィオーレもナレーションで参加している。”Music From Big Pink”のジョン・サイモンが、なぜこんなコラージュ作品を?という疑問は残るが、これは「宇宙世代の独身貴族のための音楽」が鳴っていた時代の気分であり、当時のマクルーハンのイメージなのである。(同時期に出たマクルーハン特集の『ニューズウィーク』のカバーを見て欲しい。)
『メディアの理解(メディア論)』は、モザイク状のメディアについて、モザイク形式で書かれた書籍(というメディア)であった。『メディアはマッサージである』では、メディアを変えることでメッセージを変え、さらにメディア論的な転回を見せたと言えるだろう。
この2年後、アポロ11号が月面着陸を果たし、宇宙時代は幕を閉じる。その様子はテレビ中継を通じ、6000万人以上の人々によって同時に目撃された。
解きたい誤解が妙に多くて、思った以上に長くなったので、続きは次回
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