前回の「100年目のマーシャル・マクルーハン 1」の続き。
「外心の呵責」に苛まれる時代
『メディアの理解(メディア論)』で謳われた「われわれは、われわれの見ているものになる」、すなわち「われわれがメディアを形づくり、その後メディアがわれわれを形づくる」というテーゼは、ますます現実的なものになってきた。
メディアによって拡張されても、われわれは全能に近づくわけではない。前回の「感覚比率」の通り、ある感覚を拡張させれば、また別の感覚が麻痺していくだけである。
かつての身体の拡張は閉鎖体系であったが、現在の電子メディアによるネットワークは脳と神経の拡張であり、オープンな体系である。そのため、われわれは自分を拡張したものがどうゆう風に見られているか、いつも気にしなければならなくなった。この感覚をマクルーハンは「外心の呵責」と表現した。
われわれの神経系が拡張されることになった契機は、電信が発明された1844年とされる。この同じ年にキルケゴールの「不安の概念」が出版されたことを、マクルーハンは偶然とは考えていないようである。
テクノロジーへのナルシシズム
「外心の呵責」の観念は、「ナルキッソス」への言及につながっていく。
PCやスマートフォンのようなデバイスはもちろん、利用するサービスの向こう側にあるネットワークまでもが、われわれの神経系の延長である。われわれは自分の語った言葉を、自分に対する評判を、SNSの友達やフォロワーを、聴いた音楽や読んだ本や記事を、いつも身に纏っていることになる。マクルーハンの言う通り、「われわれは社会を身に纏っている」のである。
神話の中のナルキッソスが、水面に写ったその姿を自分の拡張とは気が付かなかったように、われわれは「外部に突き出た自分自身の一部分を扱わなくてはならないことを忘れがち」なようである。マクルーハンはこの状態を「感覚麻痺」と呼んだ。「感覚麻痺」とはギリシア語で”narcosis”、つまり「ナルキッソス」の由来となる言葉である。
絶えずテクノロジーを抱擁しつづけると、われわれは自らを自動制御装置としてそれらに関係付けることになる。だからこそ、それらを使いこなすためには、これらの対象、これら自分自身の拡張したものに、神あるいは小さな宗教でも宿っているかのように仕えなければならなくなる。
マーシャル・マクルーハン『メディア論 – 人間の拡張の諸相』
マクルーハンはガジェット愛好家の心理をこう説明している。われわれが自分の持つデバイスを、そこで利用するアプリケーションやサービスのすばらしい機能を、したり顔で人に紹介してしまうのは、またそれが自惚れて見えるのは、こういった理由によるのかも知れない。
図/地=メディアの内容/形式
文字文化の先人たちは「地を欠いた図」とともに生きた。われわれは電子メディアという「隠れた地」とともに生きる。
マーシャル・マクルーハン+エリック・マクルーハン『メディアの法則』
ゲシュタルト心理学からの応用である「図」(figure)と「地」(ground)の関係は、その大地の上の砂など(地)に書かれた絵や言葉(図)であり、岩(地)を刻んだ壁画や彫刻(図)である。そしてその2つの「間」とは、文字通りメディア(medium)のことである。
また「図」はメディアの内容に、「地」はメディアの形式に置き換え可能である。砂という「地」に描かれた「図」は、いつも風で吹き飛ばされる危険に晒されるが、岩という「地」に刻まれた「図」は、時間をかけなければ風化しないだろう。
つまり、部族時代のわれわれの祖先は、その特性に合わせて「地」を利用し、そこに「図」を作った。その「間」には、そのメディアにはメッセージがある。そして同じように、今われわれが電子メディアを目の前にしたとき、高度なネットワーク技術やサービスの市場優位性といった「隠れた地」の特性によって、その利用する態度を決めている。
メディアが大きな転換を迎えるとき、われわれは前時代の様式を取り戻す。そのためマクルーハンは、グーテンベルクよりさらに前の部族時代を参照する。そしてわれわれは、かつて国家によって脱部族化された名残を留めたまま、電子メディアによって再部族化していく途中である。
バックミラーから見たリアルタイム
マクルーハンは、われわれのメディアへの接し方を、前を向いて運転しながら、バックミラーで後方を眺める姿に例えた。
これはリアルタイム・メディアのタイムラインの様子にも似ている。われわれがタイムラインで見るのは、「リアルタイム」で収集されたさまざまな過去である。つまりバックミラーに写りこんだ少し前の現在と言えるだろう。そして今日も多くの人が同じことに言及し、クリシェは同時多発的に繰り返される。
かつての常套句(クリシェ)は、新しい地と新しい意識に形を与える固有の原理として、また新しい地との関係のなかで変容した意味をともなった元型(アーキタイプ)的郷愁の図として、回復される。
マーシャル・マクルーハン+エリック・マクルーハン『メディアの法則』
使い古されたクリシェは廃棄処分されアーキタイプになり、アーカイブに回収されて、初めて取り出し可能になる。フロントガラス越しに前を見るということは、アーキタイプを再利用するためにアーカイブを探索(Probe)することではないだろうか。マクルーハンの言葉から、そう読み取れる。
メディア分析装置「テトラッド」
マクルーハンは『メディアの法則』において、「テトラッド」というメディア分析装置に辿りつく。4つひと組の質問とその相互作用を表した「使える」テンプレートを、簡単に紹介しておきたい。
- 強化(Enhance):それは何を強化し、強調するのか?
- 回復(Retrieve):それはかつて廃れてしまった何を回復するのか?
- 衰退(Obsolesce):それは何を廃れさせ、何に取って代わるのか?
- 反転(Reverse):それは極限まで推し進められたとき、何を生み出し、何に転じるのか?
強化/反転の関係は、回復/衰退の関係に等しい。強化/回復の関係は、反転/衰退の関係に等しい。また強化/衰退は、作用/反作用の関係である。
破線で囲まれた箇所は、『マクルーハン – 生誕100年、メディア(論)の可能性を問う』において息子のエリック・マクルーハンがアップデートを行ったところで、ここに注釈を加えることによって、テトラッドはより完成に近づいていく。
「テトラッド」の適用例もいくつか紹介しておく。
現代の「不安」と「芸術家」
古いテクノロジーに慣れきった社会に、新しいテクノロジーが押し寄せると、あらゆる種類の「不安」がわれわれを襲うことになる。
新しいメディアによって、「コミュニケーションの手段は増え、副次的な指導体制の仕事は機械化され、指令を無批判に受ける人間が現れる」。これはマクルーハンが引用した、ナチス・ドイツのニュルンベルク裁判の証言である。ここでの「新しいメディア」とはナチスのラジオ演説のことを指しているが、昔も今もそれがもたらす「不安」は変わらない。結局「メディアの諸形式を知らないと、われわれはそれに操られてしまう」のだ。
こうした「感覚麻痺」に陥らないためには、「判断保留の技法」が有効であるとマクルーハンは言う。そして新しいテクノロジーによる新しい生き方を示す人間として、「芸術家」に期待を寄せている。
では、現代における「芸術家」とは誰のことだろうか?マクルーハンは定義こうだ。
芸術家とは、自然科学であれ、人文科学であれ、分野を問わず、自分の行動と同時代の新しい知識とを把握する人間である。彼は統合的な意識の持ち主である。
マーシャル・マクルーハン『メディア論 – 人間の拡張の諸相』
マクルーハンは新しいテクノロジーを信仰しているわけではなく、冷静な観察者であった。繰り返すと、彼は預言者ではなかった。しかし「芸術家」を「事態が生じる数十年前にメッセージを察知する」預言者のようなものに見立てていた。
こんな言葉もある。「古い環境は芸術形式へと変わり、新しい環境の内容となる」。先ほどのテトラッドを借用すれば、古いメディアは芸術によって「回復」される、と言える。
今改めて、マクルーハンを読み替えることとはどういうことであろうか。
それは「判断保留の技法」、彼が自分自身に問い続けたこの質問「今気づいていないことは何か?」を考え続けることだろう。そうやってメディアを探査(Probe)しようとするとき、今でもその概念装置は理解の大きな助けになる。