ハイデガーの技術論への助走と、原子力時代の技術について。

Die Frage nach der Technik

動揺する「根拠」

「何かを言わなくてはならない」「可能なら気の利いたことを言わなくてはならない」という、よくよく考えると何の根拠もない圧力は、この社会に遍在しています。われわれはそれによって苦しんでいる。
佐々木中「砕かれた大地に、ひとつの場処を」-『思想としての3・11』p.3

この「何の根拠もない」圧力は、「根拠」を求める圧力である。震災以後、われわれはシャキッとしたり、ボーっとしたりしながら、情報を探し、それを信じられるものにするため、「根拠」を求めた。今思うと、「根拠」のない情報を流したものが断罪されてしまうような、かなり異常な状況であった。

「根拠」については、ハイデガーが二十世紀において別用に、批判的に取り戻そうとしました。(……)根拠というのは、あるいは理性、土台というのはドイツ語で「グルント」といいます。Grund。英語でいう ground です。つまり「大地」「土地」と同じ語なんですね。足を踏む、この大地こそが根拠である、理性を働かせる何かであるわけです。
リスボン大地震によってこの根底的な比喩が失われてしまった、あるいは少なくとも衰退してしまった、ということになります。まさにグルントが動揺してしまったわけですからね。キリスト教において神は「理性」であり、万物の「理由」であり、「根拠」であり、「善」です。(……)このキリスト教的な「根拠=大地」という概念が、大げさに言えば粉砕されてしまったわけです。
それを受けてのことでしょう。ハイデガーはこう言います。根拠律とは何か。つまり Grund の原則とは何か。(……)しかしハイデガーはきわめて明快に、「すべてのものには根拠があり、原因があり、理由があるはずだ」という命題自体には根拠はない、と言うんですね。
佐々木中「砕かれた大地に、ひとつの場処を」-『思想としての3・11』pp.14-15

「根拠が動揺するということは、信じられなくなる」ということである。そして何を信用すればいいのかわからなくなると、ますます「根拠」を求めてしまう。

だから「根拠」があることに「何の根拠もない」と言われると、循環が断ち切られ、我に返る。次の瞬間、すこし見晴らしがよくなった気分になる。こうした転回でもたらされる感覚は、技術論のハイデガーにも共通している。

原子力時代の「不気味なもの」

本当に不気味なことは、世界が一つの徹頭徹尾技術的な世界になる、ということではありません。それよりはるかに不気味なことは、人間がこのような世界の変動に対して少しも用意を整えていない、ということであり、私どもが省察し思惟しつつ、この時代においてほんとうに台頭してきている事態と、その事態にふさわしい仕方で対決するに至るということを、いまだによくなし得ていない、ということであります。いかなる個人も、いかなる人間の集団も、きわめて有力な政治家たちや研究者たちや技術家たちをメンバーとするいかなる委員会も、経済界や工業界の指導的人物たちのいかなる会議も、原子力時代の歴史的進行にブレーキをかけたり、その進行を意のままに操ったりすることはできないのであります。
ハイデガー『放下』pp.22-23

ハイデガーは60年前から原子力時代の技術を考えており、われわれに原子力をコントロールすることはできないと、結論づけている。

たとえ原子エネルギーを管理することに成功したとしても、そのことが直ちに、人間が技術の主人になったということになるでしょうか。断じてそうではありません。その管理の不可欠なことがとりもなおさず、立つ場をとらせる力を証明しているのであり、この力の承認を表明しているとともに、この力を制御しえない人間の行為の無能をひそかに暴露しているのです。
ハイデガー「原子力時代と「人間性喪失」——小島威彦氏への手紙」-『KAWADE道の手帖 ハイデッガー』p.165

管理し続けなければならないということは、現在もコントロールできておらず、今後も不可能ということになる。

この技術をどう扱うべきか。何か代案となる技術はないか。今の問題を解決する技術はないか。われわれは情報を探し、「根拠」を求め、それぞれのやり方で技術を問う。その前提には、科学によって技術を良い方向に導くことができるという希望がある。

対して、ハイデガーは逆の順序で問いかける。科学がどうあろうと、技術的な発展を止める手立てはない。それは技術が、科学に利用されているのではなく、科学に先行するものだからである。仮に「不気味な」技術を制御する技術が完成しても、それが「不気味なもの」であることは今後も変わりない、と。

ハイデガーの技術論は、技術という現象に対する形而上学的な言葉でしかない。技術の問題は技術的にしか解決できないのだから、気の利いた策も一切ない。しかし技術的に技術を語ることでは、技術の本質にたどり着くことはできない。こういった論旨が、技術論の出発点となる。

次回は『技術への問い』を読み解いていきたい。『技術への問い』において掲げられた目的は、技術との自由な関係を築くことである。