佐々木中によるラカン講義の私的メモ、2つ目。
現実界/象徴界/想像界における「死」
ラカンの理路、ボロメオの3つの輪を横切るとき、現実界/象徴界/想像界のすべてにおいて避けがたいもの、それは「死」であった。
「現実界」は「死」の欲動に貫かれていた。
「想像界」にあるのは、その鏡に映ったのは、凍てついた人形のレリーフ(浮き彫り)であった。われわれが鏡に囚われるのは、その表象が死体のような人形(ひとがた)だからである。
「象徴界」は、そこにある「言語」は、空虚な形式として提示される。カントによれば、純粋な感性も先天的(アプリオリ)な前提、空間と時間によって形式化される。つまり、ここでの「言語」は「自我」と置き換え可能である。
シニフィアンの宝庫(trésor)、<他者>である神は言う、「おまえは死である」と。だから「言語」は死んでいる。象というシニフィアンにとって、そこに生きた象がいなくてもいいように。作者が死んでも、その言葉が生き残るように。
「換喩」と「暗喩」、「死」と「詩」
鏡を見てそれが自分であるというのは自明のことではない。「これは私だ」「これは私でない」。鏡には最初から二重の言語が折り畳まれている。
「死」とは「換喩」(Métonymie)であった。「これは私だ」「これは私でない」とは「暗喩」(Métaphore)であり「詩」である。
ラカンは曰く、「充実したシニフィアンは真理を語る、それは詩である」。
「死」は現実界/象徴界/想像界のいずれにもあった。「詩」は想像界に、それとわずかに象徴界にある。残りの象徴界、現実界における「詩」は、「<他者>の享楽」=「女性の享楽」によって完成される。
言語の外にある言語「ララング」
「女性の享楽」とは「書く享楽」であった。そして、この享楽は象徴界の外にある。つまりシニフィアンにならないもの、言葉にならないものである。これは一体どういうことか?
ソシュールはある言語学の講義において、こう言っている。「フランス語もイタリア語も存在しない。ただしその2つの言語間にはグラデーションがあり無数の言語が存在している。」
またベケットはこう書いている。「彼の物語をこそ語らなくちゃいけないんだが、彼には物語がない、彼が物語に出てきたことはない、こいつはたしかじゃないぞ、彼は彼自身の物語のなかに出てくる、想像もつかない、言語に絶する物語」、さらに「続けなくちゃいけない、おれには続けられない、続けなくちゃいけない、だから続けよう、言葉を言わなくちゃいけない、言葉があるかぎりは、言わなくちゃいけない」と続ける。
存在しない言語。言語に絶する言語。つまり言葉にできない言葉。「言語とは何か?」と問うた瞬間、失われてしまうもの。言語ではない言語。言語に入らない、言語の外にある言語。それがラカンの言う「ララング」(lalang)である。
文体とは何か。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発音筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。
中井久夫『アリアドネからの糸』
「ララング」、それは空虚な形式ではない実質的な言葉。甘く、重く、熱を持ち、匂いを放つ。フォントであり、インクの匂いであり、文体の軋み、声のトーン、リズム、その訛りであり、間である。そしてこの言語は言語ではない何か、その他、その他である。
喜び/革命の享楽
だから「神秘」(mystic)は「言語」に宿っている。その文体、書き方、語り口の中に。その盲目(mystic)のディティールすべてにおいて。
後年のフーコーは密かに、16、17世紀のスペイン神秘主義の運動を、権力への抵抗として評価していたそうだ。それは書くことによる政治的闘争であった。そしてこれまで書かない神秘家は存在しない。
20世紀の間ずっとそこにあった、権力欲のようなファルス的享楽でも、暴力のような絶対的享楽でも、また金銭欲でも、倒錯でもない。もっと別の享楽が、いや喜びが、革命の享楽が別にある。それが「書く享楽」であり、「女性の享楽」である。
「死」から「詩」へ、女性になったラカン。こうして彼はついに自らの理論を破綻させた。この勇気こそ、ラカンの偉大さである。
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