國分功一郎『暇と退屈の倫理学』の続編として予定される「欲望と快楽の倫理学」の序章、まずは「快楽」について。その講義メモ。

Terry Rogers 'Night Vision', 2002

Terry Rogers 'Night Vision', 2002

パーティーを楽しめないハイデガー

『暇と退屈の倫理学』には、3つの結論があった。

1つ目は、この本を通読すること。著者とプロセスの体験を共有することによって、すでに読者はこの倫理学の只中にいる。2つ目は、人間であることを楽しむこと。贅沢を取り戻すこと。これは消費を強いられるのではなく、浪費による満足を目指せということだった。3つ目は、動物になること。とりさらわれること。人間は自らの能力の高さによって自分の環世界で退屈してしまうが、動物は退屈しないという意味である。

「快楽」について考える場合、とりわけ2つ目の結論が重要になる。ではこの「人間であることを楽しむこと」の「楽しむ」という状態は、どのようにして可能だろうか。

『暇と退屈の倫理学』の本文には、ハイデガーの引用に基づいて、パーティーの場面が描写されている。ハイデガーは退屈の気晴らしにパーティーへ出かける。そこで食事をし、談笑し、楽しい時間を過ごした後、家に帰ってこう思う。「本当は退屈していた」と。その気晴らしには、知らず知らずのうちに退屈が絡み合っていた。

ラッセルは「楽しむとは自発的なことではなく、訓練が必要なことである」と言っている。つまり「楽しむ」ためには、それまでの日常生活によって、楽しみ方を習熟していなければならない。

例えば、音楽の楽しみ方の違いは、これまでの聴き方の違いである。これまで聴いてきたもの、その捉え方、文脈の見出し方などによって決定する。文化ではなく、もっと身近な食事における味覚の違いも、これまでの食生活の違いに起因する。栄養補給を目的にした食事や、おいしいと言われているものを、ただおいしいと言いたいがための食事は、もしかすると訓練になっていないかも知れない。

ラッセルの主張に従うと、「楽しむ」術を習得できていなかったから、ハイデガーはパーティーを楽しめなかったということになる。

「快楽」または「快」の問題

では改めて、「楽しむ」とはどうゆうことか。これを「快楽」または「快」(Lust)の問題として考えていく。

フロイトは『快感原則の彼岸』において、「快楽」とは生物における興奮量の減少であると定義している。死の欲動は、生を全うして死を目指すこと、自分のやり方で死ぬということである。死に絶え、物質に還ることによって、人の興奮量はゼロになる。

性的興奮の場合、オーガズムに達するまで興奮量が高まるが、最終的に激減する。だからその状態は死んだときに似ている。しかし「快楽」を問うのに、フロイトの定義は極論すぎる。

次に、カント『実践理性批判』を見ていく。カントの倫理学は、快楽主義を否定するが、「快楽」そのものを否定する禁欲主義ではない。その「快楽」の定義を単純化して言うと、何事かを実現する能力と現実との一致によってもたらされる感情である。またこの「何事かを実現する」要因となりうる能力を、「欲求能力」と呼んでいる。

カントは、感性的な要因(パトローギッシュ)によって、何かよいことをして気持ちよくなるのは病的であり、それを乗り越えるためには、「定言命法」に従って生きることが必要であると説く。つまり行為のたびに、その行為が普遍的かどうか判断することが倫理的であるとし、これを上級の「欲求能力」として区別している。その結果として得られるのは、「知的満足」である。

「知的満足」の状態では、「快楽」が失われることを犠牲と感じない。だから上級の「欲求能力」を行使するとき、「快楽」は必要なくなるのだ。

またドゥルーズは『カントの批判哲学』において、上級な「快楽」を、「判断するという純粋な作用の感性的表現」であり、「これは美しい」という美的判断において現れると、解釈している。カントの言葉に倣うと、美的判断とは、自由になった「構想力」と無規定な「悟性」の一致である。こうして「快」の問題は、「美」の問題に包み込まれてしまう。

カントにおける「美」の問題は、引き続き『判断力批判』において語られる。そして問いはこうなる。「美しい」とはどんなものか。

「美」と純度の問題

美的判断は、すべての人に普遍的に一致なければ成立しない。だから人が「美しい」と言うとき、判断の一致を他人に要求している。それ以前の、限定された個別の趣味によってなされた判断は、あくまで自分にとってのみ「好ましい」ものということになる。

一方、ある美的判断に基づいた論理的判断は、「一般に美しい」と表現されるべきである。これは「悟性」による判断であり、概念であるため、言葉によって他人と共有することができる。

したがって「美しい」とは、「好ましい」と「一般に美しい」が入り混じった不純なものである。では純粋な「美しい」とは、どんなものだろうか。

村上靖彦『自閉症の現象学』では、自閉症患者が水滴を見続ける様子を例にして、「美しさ」を次のように定義している。

感性的印象が運動感覚や視線触発と結びつくことなく、そして言語とも結びつくことなく意味を生成するとき、それは美と名づけられるであろう。(……)カントが示したとおり、美とは(形を作り出す力である構想力において)感性の自己組織化が生み出す快である。つまり概念による規定なしに(そして同時に自我のかかわりなしにひとりでに)感性的な形が生成する。
村上靖彦『自閉症の現象学』p.9

そこには他者の感覚がなく、自己の感覚もない。自分の身体の感覚さえもなく、ただ自分と世界が一体化している。こういった純粋さは、論理や好ましさといった概念が入り混じる定型発達の場合には、考えられない。不純にしかなりえない。

以上より、純粋な「美」とは、感性の自己組織化が生み出す「快」であることがわかった。また先にフロイトが示したように、純粋な「快」とは、「興奮量の減少」のことである。

「快」とは、いろんな思いが入り交じったものである。つまり「快」も不純なものである。先ほどの、感性の自己組織化が生み出す「快」と、興奮量の減少による「快」とを、両極端として設定すると、その間にはさまざまな「快」のヴァージョンがある。そしてこの「快」の連続態について考えたのが、ロラン・バルトである。

Pierre Bonnard 'Fenêtre ouverte sur la Seine', 1911

Pierre Bonnard 'Fenêtre ouverte sur la Seine', 1911

ロラン・バルトによる「快楽」の倫理学

愛する者と一緒にいて、別のことを考える。そうすると、もっともよい考えが得られる。仕事に必要なことがもっともうまく思いつく。テクストについても同様だ。テクストは、私が間接的に聞いてもらえるようになると、私の中に最高の快楽を生じさせる。読んでいて、何度も頭を上げ、他のことに耳を傾けたい気持に私がなればいいのだ。私は必ずしも快楽のテクストに捉えられている訳ではない。それは移り気で、複雑で、忙しなく、ほとんど落ち着きがないとも言える行為かもしれない。思いがけない頭の動き。それはわれわれの聞いていることは何も耳にせず、われわれが耳にしないことを聞いている鳥の動きのようなものだ。
ロラン・バルト『テクストの快楽』p.46

テキストの「快楽」は、個人的な経験に結びついている。読みかけの本にとりかかる前に、目に留まった別の本に軽く目を通し、また読みかけの本に戻る。ふと顔を上げ、周りを見渡し、違う用事を思い出す。こうしてテキストを書きながら、メールをチェックし、まったく関係ないことを思いつく。そんな不純の連続の中に「快楽」は潜んでいる。

「快楽」のテキストに囚われているから、「快楽」を感じるわけではない。テキストに集中していないときにこそ、「快楽」は現れる。不純であるから、「とりさらわれない」のだ。

また不純であるからこそ、「美」は概念として伝達できるのだった。逆に「美」の純度が高くなればなるほど、伝達は困難になっていく。きっと批評の意義とは、純度の高い「美」を、言葉に変換して伝えることである。

バルトは、「快楽」は言い表すことができ、「享楽」は言い表せないとしている。これは「美」におけるカントの悟性/感性と同じ原則なのがわかる。つまり「享楽」は純粋なものである。

『テクストの快楽』は、バルト自らによって、道徳性(倫理学)のジャンルに分類されている。「快楽」を語ること、「楽しむ」ことを考えることは、意外にも倫理学なのである。

  • Amazon: カント『判断力批判』〈〉〈