「経験のデザイン」について、最近考えていること。メディアを「アイデンティティ」としてとらえる試み。

Ittetsu Matsuoka 'Untitled', 2009

Ittetsu Matsuoka ‘Untitled’, 2009

「経験のデザイン」における利用者の経験に限らず、動的な事象を静的なフレームで切り取って記述する方法は、複雑化を免れない。さらに深刻なのは、その方法が本来の意図から切断され、狭義を生んでしまうことだろう。

最近そうしたことを避けるために、提供者とそこで運営されるメディアを全部まとめて、その性質を「アイデンティティ」として認識するように心掛けている。

身体の拡張としてのメディア

例えば、「経験のデザイン」において利用者のペルソナが設定されるのは、属性やセグメントを確認するためではない。利用者の「アイデンティティ」に向き合って、最適なコミュニケーションを考えるためである。この方法は、チームの意識を合わせるといった目標がその先にあるように、提供者側の「アイデンティティ」の問題にも接続されている。

また「ザ・コーポレーション」という2004年に公開されたドキュメンタリー映画では、企業を精神分析してサイコパス(人格障害)と診断を下すという、ショッキングな演出がされていた。作品の性質上、極左的なプロパガンダと退けることもできるが、それ以上に興味深いのは、企業が市場環境で生き延びる過程で「アイデンティティ」を形成するという事実である。

これはブランド戦略が、ポートフォリオやエクイティといった資産管理の視点だけでなく、「アイデンティティ」の問題から出発することに似ている。それならば、メディアについても次のように考えられないだろうか。

マーシャル・マクルーハンによる「メディアは身体の拡張である」を公理とすると、メディアは「誰か」の身体から拡張されているはずである。その「誰か」には必ずその人をその人たらしめる「アイデンティティ」が備わっている。だから、身体の拡張であるメディアにも、「誰か」の「アイデンティティ」が宿っているという定理が導かれる。

つまり、サービスや事業はもちろん、さまざまなメディアと人の集合体には、「アイデンティティ」が備わっているのではないかと考えている。

今回はこれを「メディアのアイデンティティ」と呼ぶことにして、この提供者が同一化すべき対象の性質を探っていきたい

Ittetsu Matsuoka 'Untitled', 2009

Ittetsu Matsuoka ‘Untitled’, 2009

アイデンティティ、他者との差異

エリクソンが、自我の発達における意識/無意識に対して、「アイデンティティ(同一性)」という言葉を選び取ってから半世紀以上が経つ。

「アイデンティティ」には、共時的な一貫性と通時的な連続性、そして循環性という性質がある。これはエゴ・アイデンティティ(自己同一性)から、「メディアのアイデンティティ」におけるクロスメディアやマルチチャネルといった統合や解離まで、あらゆる「アイデンティティ」に共通している。

またそれは、一般的に自己の探求によって獲得されると考えられているが、実際は主体の生物学的特徴、心理的欲求、文化や環境の影響を受けて形成される。つまり「アイデンティティ」とは、主体に固有の条件であり、病理であるため、これといった正解を持たない。その条件は、最終的に「他者との差異」によって決定づけられる。

だから「メディアのアイデンティティ」は、それぞれの利用者の心に異なるイメージとして映し出される。利用者はその思い込みに従ったり、他者とイメージを確認したりしながら、提供者からの「メッセージ」を受け取っている。

Ittetsu Matsuoka 'Untitled', 2010

Ittetsu Matsuoka ‘Untitled’, 2010

メディアの「内容」と「関係」または「形式」

その「メッセージ」とは、コミュニケーションによって生成される意味である。メディオロジーの理論によると、その意味は「内容」より、提供者と利用者の「関係」が大きく影響する。

また再びマクルーハンを参照すると、アフォリズムでありクリシェとなっている「メディアはメッセージである」という理論は、「内容」より「形式」が優位であることを示している。

つまり、まったく同じ「内容」の「メッセージ」を伝える場合も、どのような「関係」において、どのようなメディアの「形式」を選ぶかによって、その意味が決まる。その結果が「他者との差異」になる。

付け加えると、それらのメディアをどんな人たちが運営し、どのような「関係」の人たちに対して、どのようなコミュニケーションするかによって、その「メッセージ」が決定する。

こうして見ていくと、多くの「メッセージ」がメタ次元に書き込まれていることを思い出させる。「形式」は表情や声のトーンや身ぶりであり、「関係」は共有している文化や結びつきやコミュニケーションの状況で、コンテキストとして意味そのものに大きく影響している。

「内容」に対する「関係」は、声に対する身体のようなもので、必ず先立つものである。

Ittetsu Matsuoka 'Untitled', 2009

Ittetsu Matsuoka ‘Untitled’, 2009

コミュニケーションという呪われたもの

さらにメディオロジーを援用して、コミュニケーションにおける「内容」と「関係」の違いを掘り下げたい。

まずコミュニケーションにおける「内容」は、知の共有によって「真理」への到達を目指すとされる。それは主体から客体に、結果や論証や法則として告げられる。科学的・技術的な観点によって客観的な反証ができ、言表として「情報」が取り出される。

次にコミュニケーションにおける「関係」は、「信念」への同一化を目指すとされる。それは主体と主体との間で、神話や教義や命題として告げられる。それは主観的に記述され、「メッセージ」として伝えられる。

したがって「内容」は安定しており、世界に開かれている。一方、「関係」は不安定であり、それぞれの主体によって独自に解釈される。つまり主体の内部で閉じている。

だから「関係」は、「内容」のように道理としては伝わらない。「関係」は、誰かひとりによってコントロールすることができず、現れては消える幻想のようなものである。それは最初から呪われている。その「信念」を押し通すには、美化したり説得したりしなければならない。

しかし「メッセージ」を伝えることは、「内容」のコミュニケーションだけでは不可能である。それだけでなく、人は本来「関係」なしに生きられない。「関係」があることでコミュニケーションが生まれ、そのコミュニケーションを通じて「内容」が「情報」として結実される。「情報」はコミュニケーションの残滓なのである。

このように「メディアのアイデンティティ」を追っていくと、コミュニケーションの「関係」と、そこで同一化を目指す「信念」のことを、今以上に考える必要があるように思えてくる。

以上が今回の見立てになる。

すでに長くなってしまったので、続きは次に持ち越したい。

次回は「経験のデザイン」において、「関係」や「信念」をどのように扱い、どのように付き合っていくべきなのかを見ていこうと思う。

Ittetsu Matsuoka 'Untitled', 2009

Ittetsu Matsuoka ‘Untitled’, 2009