ロラン・バルト『モードの体系』の解読によって、「モード」と向き合う。もしくは、やり過ごす。

le chapeau à la mode de

得体の知れない事象「モード」

「モード」という言葉の悩ましい響きは何だろう。われわれはいつも社会状況の変化に急き立てられ、他者の欲望にそそのかされ、「モード」に翻弄される。

ロラン・バルトによると、「モード」とは「定期的に現れる新作の集団的模倣」であり、「健康であり、道徳であって、流行遅れとは病い、もしくは堕落」である。だから「モード」は権力となって、われわれの前に現れる。

敗北した去年のモードは、今年勝ち誇っているモードに対して、死者が生者にむかって言うあの冷ややかな言葉を残す。(……)「今日のお前は昨日の私。明日のお前は今日の私」。
ロラン・バルト『モード論集』-「シャネル vs クレージュ」p.49

ここでバルトが問題にしているのは、衣服に関する「モード」についてである。

かつて衣服は、社会的な差異(性別、年齢、婚姻関係、階級など)によってのみ決定された。だからその差異が硬直した時代に、人々の服装が変わることはほとんどなかった。しかしロマン主義の時代、演劇によって神話の衣装が再現され、それが絵画として描かれたことで、衣服の世俗化が起きた。やがて衣服には美的カテゴリーが生まれ、より細かなヴァリエーションが差異になっていき、シーズンごと経済に同期する「モード」が誕生したと言われる。

同じように、ビジネスにも、技術にも、思想にも、「モード」がある。一時もてはやされていた理論が、その有効性を失わないままに忘れ去られる。今度はよく似た理論に違う名前が付けられ、装いを新たにリバイバルする。それは円環状ではなく、螺旋状にヴァージョンアップしながら繰り返されているように見える。

かと言って、われわれに未来を予測することはできない。しかし今日の「モード」が、ほんの近い将来、色褪せていくことはわかる。ならば、過去から現在の「モード」を読み取り、そこに法則のようなものを見出すことができるはずである。

最初のひとことを発するときすでに、あるひとつの方法が賭けられることになる。ところでこの本は、方法についての本である。
ロラン・バルト『モードの体系』p.7

『モードの体系』が「方法」についての本であるならば、衣服以外の「モード」にも応用できるに違いない。

言語学から構造主義への「モード」

mode
I. 1 旋律,メロディー. 2 [文法] 法. 3 やり方. 4 [音楽] 音階,旋法. 5 [哲学] 様相.
II. 流行
『英語語源辞典』(研究社)

以上の意味を包括するには、「モード」を「時間に関係した様式・形式」と定義すればよい。特にここで追うのは、II の「流行」の意味においてである。(ちなみに以前『モードレスな UI としての Clear』で問題にしたのは、I.3 の意味においてであった。)

だからと言って、「モード」を「流行」という訳語に置き換えることはできない。なぜなら「流行」という言葉が、「モード」な感性からひねり出されたように聞こえないからである。「モード」は言葉の取り扱いにも影響を与える。

ロラン・バルト『モードの体系』のテキストも、当時の構造主義の「モード」に則って書かれている。そのタイトルから、「私は小説家」と言っていた晩年の文体や、官能的なファッション論が期待されるが、実際は言語学・記号学の域を出ない「生真面目な学術書」である。

この言語学によって「モード」を分析するというアイデアは、ソシュールの理論を「モード」に結びつけたトルベツコイ『音韻論の原理』からヒントを得ている。トルベツコイは、レヴィ=ストロースに影響を与えたヤコーブソンと同じプラーグ学派の言語学者であり、このことからも言語学から構造主義へと辿る文脈が同時代の「モード」であったことがわかる。

また『モードの体系』における「モード」分析は、現実の「モード」でも、イメージの「モード」でもなく、書かれた「モード」のみを対象としている。

では、なぜ書かれた「モード」なのか?

いかにも、欲望を起こさせるものは対象[物]ではなく名前であり、人に物を売るのは夢ではなく意味のしわざなのだ。
ロラン・バルト『モードの体系』p.9

Exey Panteleev '<style> defines style(CSS) for an HTML document', 2010

Exey Panteleev '<style> defines style(CSS) for an HTML document', 2010

逃げる「モード」をつかまえる

書かれた「モード」を分析するだけで、果たして「モード」の本質を捉えると言えるのか? この疑問は『モードの体系』の出版後、50年近く解けない呪縛のようなものである。

われわれの目的は、「モード」の理論を衣服以外に応用することである。その可能性は、『モードの体系』の構想の後に書かれた広告批評を参照することで、見出すことができる。

広告は、すべて一つのメッセージである。事実そこには、発信源、つまり、売りだされ(ほめちぎられ)た製品の発売元と、受信者、つまり一般大衆と、伝達手段、つまりまさしく広告媒体と呼ばれるもの、が含まれている。(……)
広告の言語活動を通して製品に接することによって、人間は、製品に意味を与え、かくして製品の単なる使用を精神の経験に変えるのである。
ロラン・バルト『言語学の冒険』-「広告のメッセージ」pp.69,77

このメディア論の教科書に載ってそうなテキストは、今日も同意できる論考だろう。またさらに多岐にわたるメディアを対象にしたテキストもある。

衣服、自動車、出来あいの料理、身ぶり、映画、音楽、広告の映像、家具、新聞のみだし、これらは見たところきわめて雑多な対象である。
そこには何か共通するものがあるだろうか? だが少なくとも、つぎの点は共通である。すなわち、いずれも記号であること。街なかを——世間を——動きまわっていて、これらの対象に出会うと、私はそのどれに対しても、なんなら自分でも気がつかないうちに、ある一つの同じ活動をおこなう。それはある種の読みという活動である。
ロラン・バルト『言語学の冒険』-「意味の調理場」p.46

『モードの体系』の功績は、感性の問題と思われがちな「モード」を、理性の問題として捉え直したことである。「モード」における「読み」とは、造形性を排除し、意味だけを抽出すること。つまり、書かれた「モード」から「モード」の意味を読み取ることである。

「モード」は書かれる。書かれるから「モード」になる。バルトが企てたのは、ある期間(共時態)のファッション誌からテキストを抜き取ることで、逃げる「モード」をつかまえること。そして強固にコード化された「モード」というものを、システム(体系)として捉えることであった。

Guy Bourdin 'Roland Pierre, Summer 1983'

Guy Bourdin 'Roland Pierre, Summer 1983'

今回のイントロダクションはここまでにして、次回は実際に「モード」の体系を見ていきたい。