前回からの『モードの体系』解読の続き。さらにバルトの方法で不確かな「モード」を「読み」、その理論の可能性を探っていく。

micca 'far', 2009

micca 'far', 2009

無限界の「衣服」と言語学

バルトは、1957年に発表された「衣服の歴史と社会学」において、言語活動(ランガージュ)のラング/パロールと、「衣服」の服飾/服装の体系に、相似性を発見する。

ソシュールによれば、「ラング」は同じ言語社会における言語の総体であり、「パロール」は個人によって使われる言語のことである。また「ラング」は「パロール」の集積から成り立ち、「パロール」は「ラング」から汲み取られる。この関係は、コミュニケーション理論におけるコード/メッセージのような、構造/事象の弁証法であると言える。

これを「衣服」に適用すると、「服飾」は「ラング」のような恣意的な価値の体系で、「衣服」の〈在庫〉の総体になる。一方、「服装」は「パロール」のような能産的・経験的な表現で、個人的な着こなしの様態と定義できる。

言語活動におけるラング/パロールと衣服における服飾/服装の関係

言語活動におけるラング/パロールと衣服における服飾/服装の関係

つまり「服飾」とは、無限のテキストである。そして「服装」とは、その限りないテキストの一部を切り取り、縫製(クチュール)して、身に纏った布である。すべての言語(「ラング」)からいくつかの言葉を選んで話すこと(「パロール」)で初めて意味が生まれるように、「服装」とは一個人が「服飾」の〈在庫〉から選び取った意味なのである。

ひとりの女が無限界の衣服をまとっているありさまを(もしできたら)想像していただきたい。その衣服そのものはモード雑誌が語っていることのすべてを材料にして織られているのだ。
ロラン・バルト『モードの体系』p.65

モード研究のコーパス

ソシュールの言語学研究は、共時態の「ラング」、つまりある同時代に共有された言語を対象とするものであった。だから「モード」の研究対象も同じように、ある共時態の「服飾」を素材として選出することが望ましい。

また季節が一周する間、「衣服」の「モード」は安定している。そして無論、毎年行われるメゾンのコレクションによって、強制的にモードチェンジされ、それが反復される。

こうした条件から、バルトが研究資料の総体(コーパス)として選んだのは、1958年6月から1959年6月までの間に発行された、”ELLE”、”Jardin des Modes”といったモード誌、また”Vogue”と”Echo de la Mode”、及びタブロイド紙のモード特集であった。

Corpus

当時のファッション界は、イヴ・サンローランやピエール・カルダン、アンドレ・クレージュといった若いクチュリエに先導されるように、産業の中心がオートクチュールからプレタポルテへと移行しており、世俗化の過渡期にあった。そんな時代を表象するのがモード誌であり、バルトはそれを「民衆のためのジャーナリズム」、または「自律的な文化現象」と呼んだ。

モード誌では、シニフィアン(記号表現)となる「衣服」がスーツ、プリーツ、金ボタンなど身体の各部位に結びついているのに対し、シニフィエ(記号内容)となる「モード」はロマンティック、小粋、都会といった言葉によって文学が描かれる。つまり記号において表裏一体であるシニフィアン/シニフィエに対し、モード誌では「衣服」というシニフィアンから「モード」というシニフィエが、先天的に切り離されているのだ。

すなわち、「書かれた衣服」だから言語学の方法論が投影できるのではなく、「衣服」は言語研究以上に言語学的なものをあらかじめ提供している。だからバルトは「衣服」と「モード」の関係に言語体系をはさみ込み、その記号作用を解読しようとした。

「モード」の構造主義的操作

当初、バルトが目論んだのは、1954年に書いた『神話作用』の意味論的な二重の体系を、「モード」に適用することであった。

神話の記号体系

神話の記号体系

しかしバルトはこれに行き詰まる。そして試行錯誤の末、デンマークの言語学者イェルムスレウが提唱したデノテーション(直示作用)/コノテーション(含意作用)、対象言語/メタ言語の関係を援用する。

イェルムスレウの言語体系は、表現(Expression)/内容(Contenu)が関係(Relation)によって結びついている。これはソシュールにおけるシニフィアン/シニフィエの関係とイコールと考えて差し支えないものである。

デノテーション/コノテーション | 対象言語/メタ言語

デノテーション/コノテーション | 対象言語/メタ言語

その結果、バルトは「モード」分析のテンプレートとなる「三部形式の記号体系」を見出した。

三部形式の記号体系

三部形式の記号体系

この体系において、「現実のコード」は「用語の体系」のシニフィエ(記号内容)を構成し、その「用語の体系」はシニフィアン(記号表現)となって「レトリックの体系」のシニフィエ(記号内容)と関係している。イェルムスレウの言語学に従うと、「用語の体系」は最下部の「現実のコード」に対するメタ言語で、「レトリックの体系」に対するデノテーションにあたる。

バルトはこの転回によって、「現実のコード」から「言語のコード」を経由して「レトリックのコード」に変換することを可能にし、「現実の衣服」からモード誌の特性的表現までの体系化を準備した。このことが意味するのは、研究対象として「書かれた衣服」だけを選んだ妥当性である。

「衣服」と「モード」と「世界」の関係

バルト曰く、「言葉は意味を支えるのではなく、言葉は意味である」。だから「現実の衣服」は、それ自体意味を持たない。「現実の衣服」の価値や社会(世界)との関係が、言葉として明らかになったとき、つまり「書かれた衣服」によって、初めて意味が生まれる。

「書かれた衣服」の体系は2つあり、いずれも「三部形式の記号体系」をベースにした、多重のシニフィアン/シニフィエで構成されている。

集合A

集合A

まず集合Aは、「モード」が「衣服」を含意している(コノテーション)。例えば「アクセサリーが春をよぶ」といった文のように、「衣服」と「モード」の間に「春」という「世界」が介在することで、その「衣服」の「世界」に対する〈機能〉が示される。それが書かれた事実によって、「衣服」の「モード」が意味される。

集合B

集合B

次に集合Bは、「衣服」が「モード」を直接指し示している(デノテーション)。例えば「今年の流行はブルー」といった文のように、「衣服」が「モード」であると宣言されることで、その「衣服」が「モード」である〈価値〉が示される。またそれが書かれた事実によって、「衣服」は「世界」と関係を持つ。

モードの二重の体系(AとB)は、現代人の倫理的ジレンマを映す鏡と見てもよい。すべての記号体系は、世界によって「満たされる」やいなや、あふれ出し、ほかのものに転換しようとし、堕落する傾向を示す。世界に向かってみずからをひらくには、自分を転嫁しなければならない(自己疎外しなければならない)。
ロラン・バルト『モードの体系』p.396

注目すべき点は、どちらの体系も最後の体系が「レトリックの体系」になっていることである。バルトが『モードの体系』で最終的に向かったのは、この「レトリック」の分析であった。

「レトリック」と「モード」のイデオロギー

次の表は、「レトリックの体系」を「衣服のコード」に対応させ、構成要素を明らかにしたもので、ちょうど集合A・集合Bを右90°回転させ、要素を縦に並べて整理した形になっている。

レトリックの体系

レトリックの体系

「レトリックの体系」のシニフィアン(記号表現)は「モードの文章体(エクリチュール)」で、シニフィエ(記号内容)は「モードのイデオロギー」にあたる。以降、本書の核心とも言える「モードのイデオロギー」、つまり「モード」の潜在的な意味を示す「レトリック」のシニフィエ(記号内容)を、順番に確認していく。

まず「衣服の詩」の記号内容にはそれぞれ、〈文化〉に係わる認識的モデル(自然・地理・歴史・芸術)、〈愛情形態〉に係わる感情的モデル、〈ディテール〉に係わる活力的モデルがある。これら3つは社会学的なモデルであり、「衣服」が目指す大衆層に向かい、詩として綴られる。

次に「モードの世界」の記号内容には、「だれが?/存在/本質とモデル」と「何を?・いつ?・どこで?/行為/機能と状況」のモデルがある。これらは自己同一性の欲望を表す物語構造であり、例えば前者はある有名人への投影、後者は状況に対するコミットメントを表している。

最後の「モードの合理」は、記号の「レトリック」のことを指している。すでに見てきた通り、集合Aは「衣服」と「世界」が、集合Bは「衣服」と「モード」が結合した記号である。集合Aは現実/非現実の〈機能〉として、集合Bはモード/デモーデ(モードでない)が〈法〉として、それぞれ合理化されている。

レトリックが、モードに世界への戸口をひらかせる。レトリックを通じて、世界はモードの中に姿を現す。そこで世界は、抽象的意味を産出する人間の力としてばかりではなく、さまざまな「合理」の集合として、つまりイデオロギーとして姿を現すのだ。(……)
結局言語は、モードの体系のデノテーションの面に干渉するかコノテーションの面に干渉するかによって、ほとんどお互い矛盾するような二種類の機能をはたしている。そして、当然のことだが、このような相異なる役わりの拮抗の中にこそ、モードの体系の深奥な経済体制が仕組まれているのだ。
ロラン・バルト『モードの体系』p.381

micca 'fake', 2008

micca 'fake', 2008

多層化された「モード」の経年変化

モードの変遷の速度が早まれば早まるほど、商品の値段は安くなり、値段が安くなればなるほど、モードの急速な変化へ消費者をいざなうようになり、製造者もそうせざるをえなくなる。
ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論 I』-「モード」p.148

前回、『モードの体系』が「方法」についての本であることを確認した。そして今回はその論旨を追い、「書かれたモード」を記号として捉える「方法」を見てきた。

「衣服」は自分を覆い、他人に見られる意味である。もしこの「方法」を他のジャンルに応用するならば、意味が発生する場所は変わってくるだろう。したがって、その「モード」が自分に対してどのように影響し、どういった形で関わるものなのかを、常に問題にする必要がある。

また服飾/服装における〈在庫〉という概念も、重要なポイントになる。ファッションは1年(S/SとA/Wの2回)で強制的にモードチェンジされるが、他のジャンルにおいて〈在庫〉が入れ替えられるタイミングは様々である。つまり、その対象ごとに「ペースレイヤリング」(多層化された経年変化)があることを念頭に置き、それぞれの「モード」の特性を捉えなければならない。

この「ペースレイヤリング」という概念は、”Whole Earth Catalog”で知られるスチュアート・ブランドが、建築の設計モデル(”How Buildings Learn”)や、文明の序列モデル(”The Clock The Long Now”)として提唱したもので、バルトの〈在庫〉と共通した、「持続時間」という指標を持っている。

いくつかの資料から、ジャンルと「持続時間」の関係を洗い出し、以下の概要図を作成した。

多層のモードと持続時間

多層のモードと持続時間

当然、この各層の「モード」に対して、われわれ自身の生の「持続時間」を加味することも必要となるだろう。次に挙げるスチュアート・ブランド “The Clock The Long Now”の要約は、このことを端的に言い表している。

人は年をとるにつれて、この一連の階層のうちで変化の遅い方へと関心が向くようになっていく。
たとえば文化について、若者は目もくれないが、年寄りは大いに興味を抱いたりする。若者はファッションを追いかけるのに夢中になるが、年寄りはそれに飽き飽きする。
IA Spectrum – スチュアート・ブランドの「文明の序列」

だから、あいかわらす若者は色んなことに興味津々で新しいことに挑戦し、高齢者は歴史から本質を見極めようとする。しかしその高齢者の若かりし日の方が、実は急進的な態度だったりすることもあるだろう。つまり、その人の年齢や環境や興味の対象によって、意識する〈機能〉や〈価値〉や〈法〉が違えば、権力となる「モード」も変わってくるのである。

最近の「モード」に嫌な顔をしていた人も、それがインフラになると落ち着くことになるし、古い「モード」を懐かしんでると、気づけばそれが最新の「モード」として〈在庫〉から再出荷され、何食わぬ顔で店頭に並んでたりする。

経済とネットワークに常時接続されたわれわれは、資本主義のエンジンによって駆動する「モード」に激しく振り回される。それが「モード」の悩ましさである。

しかしわれわれはすでに、「不透明な未来」とか「不確実な世界」とか「繰り返す歴史」とか「古きよき時代」といった言葉が、「書かれたモード」であり、〈機能〉や〈価値〉や〈法〉のレトリックであることを知っている。

「書かれたモード」にある記号を「読み」、意味を見極め、「持続時間」を考慮して、「モード」に向き合う、またはやりすごす。これが『モードの体系』という「方法」から、われわれが学べることである。