前回に続き、アンダーグラウンド心理学の道筋を辿っていくと、その先には精神分析学の創始者ジークムント・フロイトの姿が現れる。
前回は、科学的心理学とアンダーグラウンド心理学を、科学と異端の対立図式に照らし合わせながら、二人のダーウィンの理論を追ってきた。引き続き「魂」のようなものを問題にしながら、今回は精神分析学の方へと舵を切る。まずはじめに生態心理学の方法を確認していく。
マイクロスリップと錯誤行為
デカルト以降、ある領域が科学と呼ばれるには、単体のモジュールとして扱えることが条件になった。この極めて人為的な単位は、カリキュラムとして細分化するためのアカデミックな都合でもある。生態学的(エコロジカル)な心理学と呼ばれる意味を考えた場合、科学とそれ以外からなる生態系を横断するような方法でなければならないだろう。
生態心理学の基本的なアプローチは、心理的なコンディションと身体的なメカニズムを統合したものである。したがって、「意識」と「行動」は分離できないという考えが出発点になっている。
生態心理学における「意識」と「行動」について整理しておくと、まず「意識」とは、知覚システムによって「アフォーダンス」から「意味」を識別することである。対して「行動」とは、識別された「意味」によって、環境と特定の関係を結ぶことを言う。われわれはこれら二つを、別々ではなく、同時に行っている。
また「アフォーダンス」との関係において、もう一つ重要なのは、われわれが「行動」しながら「調整」していることである。「調整」は「行動」におけるたくさんの小さな失敗を隠蔽している。アンダーグラウンド心理学のキュレーターであるエドワード・リードは、この小さな失敗のことを「マイクロスリップ」と名づけた。
例えば、われわれがコーヒーを飲もうとするとき、コーヒーカップを注意深く扱うわけではない。それは習慣化されており、ほぼ無意識に行なっている。しかし細かく観察すると、実は何度も「マイクロスリップ」を修正しながら、複雑な「行動」を成し遂げている。
この「マイクロスリップ」は、フロイトが「錯誤行為」と呼んだもの、言い違い、読み違い、書き違い、勘違い、物忘れといった現象と同義である。またフロイトによると、「錯誤行為」は、夢や神経症と同じように、「無意識」によって立ち現れる。
エコロジカルに無意識を捕まえる
フロイトが考える「無意識」とは、複雑さを抱え込んだ人間の本質である。そこにうずまく「欲動」によって、われわれは日々突き動かされている。
前回のとおり、18世紀の科学は「魂」を神学に預けた代わりに、「心」を、つまり「意識」を設定した。しかしエラズマス・ダーウィンが扱った「魂」は、神学で扱う「魂」とも、科学で語られる「意識」とも違っていた。
その「魂」とは、エーテル体と想定されたもの、科学によって記述できないもの、目に見えないもの、隠されたものであり、「感じ(フィーリング)」という曖昧なものであった。それはフロイトによる「無意識」の概念に限りなく近い。
フロイトが「無意識」を発見して以降、世界の見え方は大きく変わってしまった。われわれは思考と存在を切り離して考えなければならなくなった。ある人が何かを口にするとき、何かの態度をとるとき、それはその人の本心であるとは限らない。しかも本人がそのことに気づいていないこともある。「無意識」の革新性は、隠された欲望とその葛藤を暴露したところにある。
しかし「意識」ではなく「無意識」を中心に据えた思想は、無神論であり、科学的にも実証不可能であると断罪された。フロイトも、二人のダーウィンと同じく、神学と科学の狭間で引き裂かれていた。
たしかに「無意識」を、何かが投影されたものとして実体化したり、記述したりすることはできない。けれども、われわれは「無意識にしてしまった」という現象を知っており、共有することができる。そこに可能性は開いている。
ギブソンによるエコロジカル(生態学的)な現象の捕まえ方。それは「行動」と「調整」のような関係を、ひとまとまりの「運動」として捉えることにある。これはチャールズ・ダーウィンが「種」を観察した方法でもあった。
「意識」と「無意識」をこの方法によって捉えると、それらは「行動」と「調整」のように、動的に絡み合っているのがわかる。普段われわれは「無意識」に「行動」を「調整」しているが、「無意識」が先行するのを察知して、「意識」的に「調整」することもある。だから、「意識」と「無意識」はそれぞれ独立したものではなく、何らかの関係を結んでいると考えられる。
結合される身体と環境
次に、エコロジカルな世界の捉え方によって、身体と環境の関係性を見ていく。
例えば、直立歩行という「行動」は、その姿勢と環境の相互作用によって成り立っている。歩くのに必要なメカニズムは、足の裏で地面に触れ、基礎定位を確保し、姿勢を「調整」することである。また同時に、目で地面を確認し、手でバランスを取ったりしながら、自分の意図した方向に歩を進めていく。
このとき、目や手は、環境と直接関係を持っているわけではない。それらは身体という大きな単位のなかに組み込まれ、それぞれの役割を果たしている。
このように身体は、さまざまな器官によって、環境を知覚するために組織化されている。これは環境にも共通した構造である。
それを私は入れ子(nesting)と名づけよう。たとえば、峡谷は山に組み込まれ、樹木は峡谷に、木の葉は樹木に、そして細胞は木の葉の入れ子となっている。形態の中にいくつかの形態があり、それらは大きさの程度において上下の関係にある。ある単位はより大きな構成単位に組み込まれている。ある事物は他の事物の構成部分である。これらは階層を成していると考えられるが、この階層は絶対的なものではなく、段階の推移や部分的重複がしばしばみられる。
ジェームズ・ギブソン『生態学的視覚論』(P.9)
さらに、身体と環境という二つのシステム(複数の構成要素から成り立つ集合体)は、別々のものではない。その接面である足の裏と地面で結合され、一つのシステムとして連動している。
フロイトの「無意識」論も、「主体」に組み込まれた「意識」と「無意識」、さらに「無意識」に組み込まれた「欲動」があり、同じような入れ子構造を持ったシステムである。それらはどのような原理によって、どうふるまっているのだろうか。
快感原則と現実原則による欲動
エドワード・リードが参照したフロイトの欲動理論は、『欲動とその運命』(1915年)のバージョンであった。それには、「無意識」に組み込まれた「欲動」が、「快感原則」と「現実原則」という二つの原理にしたがって、「運動」する様子が描かれている。
幼少期の自己は、まだ世界と分断されておらず、一体感による「快」の只中にいる。「快感原則」とは、やがて失われる一体感の「快」を追い求め、「不快」を和らげようとすることである。その「欲動」は性的欲求へと向かっている。
一方、成長に連れて自己が統合されていき、自己とは別の世界が構築されると、「現実原則」を知覚するようになる。以降、われわれの経験は常に「現実原則」によって媒介される。「現実原則」とは、「快感原則」に支配されることで、社会的な「不快」を感じないようバランスを取ろうとすることである。この「欲動」は自己保存へと向かっている。
フロイトはこの欲動理論が、すべての生物に適用できると考えていた。たしかに「快感原則」と「現実原則」の関係は、フロイトが尊敬してやまなかったチャールズ・ダーウィンの「性淘汰」とそれ以外の「自然淘汰」の関係にほぼ一致する。どちらも環境との相互作用によって動機づけられ、同じような原理に司られている。
フロイトは後の『快感原則の彼岸』(1920年)において、これら二つの「欲動」を、「生の欲動」または「エロス」として統合した。祖父と孫のダーウィン、ギブソン、フロイトの四人は、ここで邂逅することになる。
エラズマス・ダーウィンが「感じ」と呼んだもの。神学と科学の間で放り出され、チャールズ・ダーウィンが拾いあげた「魂」のようなもの。フロイトが発見した「無意識」。それらをギブソンのやり方でエコロジカルに紡ぎながら辿りついたのは、「エロス」という場所であった。
そしてさらに「エロス」は、われわれを孤立から共存へと誘っていく。
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ギブソンの教師であった、エドウィン・B. ホルト「フロイト流の意図」を所収 - Amazon: 佐々木正人、エドワード・S. リード 他『アフォーダンスの構想 – 知覚研究の生態心理学的デザイン』 エドワード・リード「ダーウィン進化論の哲学 – 変化の諸法則」所収
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「欲動とその運命」「快感原則の彼岸」「自我とエス」所収。中山元・訳、竹田青嗣・編。